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ムッシュKの日々の便り

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トゥルノンのマラルメⅠ

 「トゥルノンのマラルメ」をしばらく連載することにする。これは最初のフランス滞在から帰国して間もない、1970年代末に執筆したもので、角川書店から当時出ていた雑誌「ザテレビジョン」用の200字詰め原稿用紙89枚に書かれている。取材を受けた際に貰った原稿用紙を使ったものと思われる。このときは未完に終わったが、その一部はその後に刊行したマラルメをめぐる著作に生かされた。今回、マラルメが取り組んだ初期の「エロディアード」の検討を追加して、40数年ぶりに発表することにした。

  トゥルノンへの旅

 南フランス、アルデッシュ県の小都市トゥルノンを初めて訪れたのは、1971年夏のことである。パリを朝発ってリヨン駅で3時間ほど待ち、ニーム行きの普通列車に乗り換えて、トゥルノン駅に降り立ったのは午後4時をすぎた時刻であった。夏の陽はまだ頭上にあった。
 トゥルノンは、リヨンからローヌ川に沿って、南へ80キロほど下ったところにある。ローヌ川をはさんだ対岸は交通の幹線が通り、パリからリヨンを経てマルセイユやニースへ行く特急列車が日に何往復もし、フランス一交通量の多い国道6号線がコート・ダジュールまで延びている。それに対して、ローヌの右岸にある町々を訪れるには、国道6号線を車で下るか、リヨン発ニーム行きの普通列車を利用するかだが、この列車は一日に6往復と本数が少ない。
 列車はリヨン駅を出ると間もなくしてローヌ川を渡り、その後はローヌ渓谷に広がるブドウ畑をぬって南下する。リヨンからトゥルノンまでの距離は95キロほどだが、乗車時間は1時間半かかる。トゥルノンのマラルメⅠ_d0238372_11493293.jpg
 トゥルノンはステファヌ・マラルメが、1863年12月から1866年12月にブザンソンに移るまで、丸3年滞在した町である。マラルメが数々の作品をものした町がどんなところか、その雰囲気に浸るのが旅の目的であった。
 パリから電話で予約しておいた宿は町の中心にあった。「リセ(高等中学校)広場1番地」という住所から推測した通り、ホテルはマラルメが英語教師として勤務したトゥルノン高等中学校(現在はガブリエル・フォール高等中学校と呼ばれる)とは、小さな広場をはさんで向かい側にあった。マラルメの事跡を訪ね歩くには恰好の場所だった。
 翌朝、まず向かいの高等中学校を訪ねた。学校は夏休みとあって静まりかえっていた。門番(コンシエルジュ)に訪問の趣旨を話すと、快く構内を見せてくれるという。トゥルノンのマラルメⅠ_d0238372_11515663.jpg
 楡の樹が校庭を取り囲み、三方に三階建ての校舎があり、最上階は寄宿生のための宿舎(パンション)になっているとのことだった。高い楡の梢では、パリでは耳にしない蝉がしきりに鳴いていた。
 マラルメが英語教師として、新妻のマリーを伴ってこの高等中学校へ赴任したのは、1863年12月9日のことである。マラルメはこの年の8月、逃避先のロンドンで、マリー・ジェラールと結婚式をあげ、1カ月後の9月17日、英語の教員適格証明書を得ていた。
 証明書を手にした直後、彼は文部大臣に宛てて、できればピカルディー地方の都市サン・カンタンのポストを得たいという希望を手紙で書き送った。文部大臣デュルイからは、数日後に返事があり、「ライト氏が休暇の間、トゥルノン帝国高等中学校の英語の補充講師として採用する」と伝えてきた。
 マラルメ夫妻はロンドンから帰国すると、しばらくパリと高校中学校時代をすごしたサンスに逗留したあと、トゥルノンへ向った。トゥルノンでは数日間ホテルに投宿し、その後ブルボン通り(現在のジョゼ・ペルナン通り)19番地に部屋を借りた。(続)
by monsieurk | 2015-06-18 22:30 | マラルメ
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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