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ムッシュKの日々の便り

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トゥルノンのマラルメⅢ

 初めての教師生活

 マラルメ夫妻がホテルを出て移り住んだブルボン通り19番地の家は、学校には近かったが、陰気で、とても快適とはいえなかった。アラルメはリューマチの痛みがひどく、手足を動かすことさえままならなかった。その上、ミストラルが運んでくる凍るような寒気は身にこたえた。新たな環境への嫌悪の情は、ときとともに募るばかりだった。
 マラルメがすすんで地方の教師生活を選んだ理由は、それが「素朴で、慎ましく、平穏」(カザリス宛、1863年1月30日付)けであり、わずらわしい事柄から逃れて、詩作に没頭できると考えたからである。
 同棲と離別を繰り返したロンドンでのマリーとの生活のはてに、詩作に全精力を傾注することだけが、煩瑣な現実を乗り切る唯一の途であると覚悟を決めて、地方の教師の職を願い出たのだが、着任早々、後悔の念が萌しはじめた。
 トゥルノンに裁判所さえなければ、窓から見える「汚らしい家という家に火を放って、哀れな隣人どもの頭蓋骨に弾を撃ち込みたい」(カザリス宛、1894年〔3月23日〕)という、凶暴な気持にかられるときさえあった。「田舎は決してよくはない。元気で活動的で、健康にみちあふれた人のためにはなるだろうが、・・・・だが、消極的で、病的で、脆弱で、無力な魂、パリとの接触のたびに興奮し、群集のなかでは活気づき――なんらかの事を成し遂げられる、そういった魂は、肉体的な気晴らしさえない田舎、惨めな村では死んでしまう。」(同)トゥルノンのマラルメⅢ_d0238372_6211928.jpg
 こうした後悔にさらに拍車をかけたのが、教室での授業であった。かつて祖父デモランは、マラルメが高等中学校を卒業して、将来教職に就くために大学へ進みたいという孫に対して、教師というものは、「生徒を前にしたら臆してはだめだ。さもなければ、たちまち嘲罵にさらされてしまう」(祖父デモランからマラルメに宛てた手紙。1862年1月25日付)と言って、声が細く、繊細すぎるマラルメに教職は向いていないと、強く反対したことがあった。この祖父の忠告は不幸にも的中したのである。
 新任のマラルメの挙動と小さな声は、とうてい生徒たちに威厳を感じさせるものではなかった。教室はたちまち彼を馬鹿にした喚声と、紙礫(つぶて)で一杯になった。
 ルイ16世の治下、トゥルノン中学(コレージュ)は王立陸軍学校として創設され、学生が優秀なことで全国に名を知られていた。しかしマラルメが着任した第二帝政当時、伝統を誇るこの学校は、「トゥルノンの我儘者」と綽名されるように、生徒の素行の悪さで有名だった。
マラルメは祖父が予言した過酷な運命を免れることはできなかった。穏やかで、平穏な環境を手にしようと選んだ教師の職が、彼にとっては地獄となった。授業がどれほどの苦痛をもたらしたかは、親友のカザリス宛ての手紙が物語っている。
「〔毎日が〕蜂の巣をつついたようにうるさい授業の連続だ。授業は一日を分断し、私の頭を打ち砕いてしまう。私はほとんどまったく尊敬をうけていず、ときには石礫、嘲罵の喚声に悩まされることもある。」(カザリス宛、1866年4月28日)
「私のもっとも美しい詩想の躍動や稀有な霊感も、教師という嫌な仕事で中断されてしまう。そして、答案を尻にかかえ、子どもたちを私のマントにくるんで帰ってくると、私はすっかり疲れはて、もう休養をとるのが精一杯なのだ。」(カザリス宛、1965年1月15日付)(続)
by monsieurk | 2015-06-24 22:30 | マラルメ
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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