フランスで歌になった惟然の句Ⅳ
岐阜県関市にある惟然記念館(弁慶庵)に勤務する沢木美子は、「Haiku Journal」vol.1, no. 4(2001年4月)掲載の「惟然と一茶」で、惟然の口語俳句がのちの俳人たち、なかでも化政期の一茶に影響をあたえたとした上で、「〈おもたさの雪はらへどもはらへども〉と〈しぐれかりはしり入りけり晴れにけり〉の二句がチェンバレンによってアメリカへ紹介されているそうである」と述べている。この書き方からすると、沢木自身は翻訳を確認しておらず、しかも「アメリカへ」というのがどういう意味か不明だが、この指摘からも、チェンバレンの翻訳に当たってみる必要がある。
チェンバレンはイギリスの軍港として名高いポーツマス近郊のサウスシーで、海軍少将の父と母イライザの間に、1850年10月18日に生まれた。母は『朝鮮・琉球航海記』の著者であるバジル・ホールの娘で、母方の祖父と同じ名前をつけられたのである。
6歳の1856年、母が亡くなると、祖母に伴われてフランスに渡り、ヴェルサイユに住んで、英語とフランス語で教育されながら育った。その後イギリスに戻って、オックスフォード大学への進学を目指すが失敗。大学をあきらめて銀行に就職した。
その後縁あって、1873年23歳のときにお雇い外国人として来日し、翌74年から88年まで、海軍兵学校で英語を教えた。さらに1886年からは東京帝国大学の外国人教師となり、この間 Things Japanese(『日本事物誌』、1890年)など、日本の社会や文化を欧米に紹介する多くの著作をものした。その中には先に述べたように、「俳句」を初めて翻訳するなどの業績を積んだ。その後1911年に離日。以後はスイスのジュネーブに住み、1935年2月に当地で没した。
チェンバレンの著作は多いが、文学関係の著書としてあげられるのは、先ずはThe classical poetry of the Japanese.( 『日本人の古典詩歌』、Trübner & Co. Ludgate Hill, 1880)である。現在、比較的簡単に手に入りやすいのは、カナダのトロント大学が所有している第2版のリプリント版で、これを入手して全頁に目を通してみた。だが結論から言えば、この本には惟然の句の訳は見当たらない。
もう一つの可能性は、チェンバレンの Bashō and the Japanese Poetical Epigramで、これは”Asiatic Society of Japan” (Vol.2,no.30, 1902)に掲載された。いますぐにこれを参照する手立てはないが、これに載ったチェンバレンの俳句の翻訳を含めて、様々な人によって 英訳された俳句のアンソロジーが、Faubion Bowersの手で編纂されて出版されている。それが、The Classic Tradition of Haiku: Anthology (Dover Publications、1996)で、これはすでに電子化されているので、Amazonで購入しKindleで読んでみた。
ここには宗祇から正岡子規まで、52人の俳人たちの翻訳があり、芭蕉、蕪村、一茶などの有名な句の翻訳がみられるが、残念ながら肝心の惟然の句の翻訳は見当たらなかった。チェンバレンは惟然を翻訳したが、バウワーが編纂する際に割愛したのかもしれない。
こうしてジョルジュ・ミゴが、ルヴォン以外から、惟然の翻訳を引用したかどうかの探求は振り出しに戻ってしまった。ただ、ミゴが用いた訳、”L’averse est venu; / J’était sorti et je rentre en courant. / Mais voici le ciel bleu.”(にわか雨が来た;私は出かけていたが走って戻る。/ だがいまは青空。)は、惟然の原句の音の繰り返しを、忠実に再現しようとしたルヴォンの訳に比べて、一層映像的でありで、タイトルにある「日本の7つの小さなイメージ」にふさわしいのは確かである。
いまのところ確証はないが、ミゴがルヴォンの翻訳を参照しつつ、自らの美意識にしたがって、歌の歌詞にふさわしく改良を加えたと考えることは十分に可能である。
ルヴォンが訳した多くの和歌や俳句のなかから、6つを選び出した〈他の一つはアストンの仏訳から)ミゴは独自の選択基準を持っていたはずで、その点からも改訳の可能性は高い。
ドビュッシーやフォーレに影響されて作曲をはじめたミゴは、一時期、日本文化に強い関心をもち、1917年の『日本の7つの小さなイメージ』に続いて、1920年には『羽衣(HAGOROMO)』を作曲している。その後は、中世音楽の魅力にひかれて行ったのは既に述べたとおりである。