フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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武田泰淳の「未来の淫女」Ⅰ

 これを書くきっかけは、梶ヶ谷にある行きつけの古書店の主人の話だった。彼は最近になって武田百合子の『富士日記』を読んで感動した。とくに彼女の文体が素晴しいと、興奮の面持ちで語った。武田百合子は言うまでもなく武田泰淳の夫人で、武田が亡くなったあと、『富士日記』をはじめ堰を切ったように作品を発表し、高い評価を受けた。
 『富士日記』を含む武田百合子の作品は、中央公論社から刊行された、7巻の『武田百合子全作品』におさめられており、第3巻『富士日記(下)』の「あとがき」で、いいだものが、「アプレ・ガールとしての百合子さん」と題して次のように書いている。
 「戦後文学と戦後思想の出発を記念する場合には欠かすことのできない神田神保町のカストリ・バー「ランボオ」を、千客万来のサロンに化した魅力(シャルム)の源泉は、まだ鈴木という姓であった時代の美少女のウェイトレス百合子さんですが、そこに通いつめた武田泰淳さんの作品に『物啖う女』というのがあります。今の文庫本では『物食う女』となっているようですが、元の「啖う」の方がいい。とにかく、「女」はハングリー精神でパクパク、パクパク、神経衰弱的左翼くずれ文士を驚嘆させるほどに、よくクラウのです、大きな声の、食欲がほとばしり出るエネルギー放射の塊なのです、「物語の女」百合子は。」
 武田泰淳の「もの喰う女」は雑誌「玄想」の昭和23年10月号に発表された作品で、筑摩書房の『武田泰淳全集』では第1巻に収録されている。
 「よく考えてみると、私はこの二年ばかり、革命にも参加せず、国家や家族のために働きもせず、ただたんに少数の女たちと飲食を共にするために、金を儲け、夜をむかえ、朝を待っていたような気がします。」と書き出される作品では、「私」はこのころ二人の女性と付き合っている。一人は弓子という新聞社に勤める女。この弓子は「私」以外にも食事などを共にする男友たちが多く、思うに任せない。
 もう一人の房子は、「神田のかなり品の良い喫茶店で、昼の十二時頃から、夜の十時ごろまで立ち働いているので、自由に気楽に会いに行けます。」という存在である。房子は明らかに当時まだ鈴木姓だった百合子がモデルで、武田泰淳は彼女を以下のように描写している。
 「久しぶりでその喫茶店へ出かけ、隅の席に腰を下ろすと、彼女はすぐにお辞儀をしてから注文をききます。それから勘定台の向う側のボーイに「わたしにもドーナツを一つくださいな」とたのみます。ガラス容器の中に、チョコレートなどと一緒に並べてあるドーナツをボーイが一つつまみ出してくれる。すると彼女は私の方へ顔を向けたまま、指先で上等のドーナツに歯をあてるのです。よく揚った、砂糖の粉のついた形の正しいドーナツを味わっている。その歯ざわりや舌の汁などがこちらに感じられるほど、おいしそうに彼女はドーナツを食べます。まるでその瞬間、その喫茶店の中には、いや、この世の中には彼女とドーナツしかなくなってしまったように、私が来たという安心、そのお祝い、それから食べたい食べたいと想いつめていた慾望のほとばしりなどで、彼女は無理して、月給からさしひかれる店の品物を食べてしまうのです。そこには恋愛感情と食慾の奇妙な交錯があるのです。」
 評論家のいいだものを初め、当時の武田泰淳と百合子の関係を知っている人たちの証言では、これは実際にあった話で、武田はこうした百合子に惹かれていったのだという。
 この作品が書かれた1948年(昭和23年)、武田泰淳は36歳、鈴木百合子は23歳で、二人はこの3年後に結婚した。
 武田は「もの喰う女」に続いて、当時の百合子をモデルにした「未来の淫女」を書くが、これは作品集『未来の淫女』(目黒書店、昭和26年)に収録されただけで、全集には入られていない。この作品集の巻末につけられた「自作ノート」にはこうある。
 「昭和廿一年、第一作「才子佳人」が先輩の好意で発表されてから約一年、私は何を如何に書くべきか全くの昏迷状態に在った。この作品は戦時中の草稿に手を加えたにすぎず、浪漫抒情を古語古詩の美的土壌に探るというその意図は、戦後の持続が困難であった。美も真も善も、新しい自我の鑢〔やすり〕にかけ、重苦しい巷塵を通過した複雑な光線で灼き試みてからでないと、創作を誘い、小説を生む力はない。このきまりきった過程に苦しむうちに「秘密」「審判」の二作を得た。しかし新しい自我、第二の「私」はたやすく確立じゃできない。おのれの醜、おのれのエゴイズムを発見しただけでは、芸術の魔神は遠ざかるばかりである。(中略)
 「未来の淫女」(昭和24年「文春別冊」13号)は「血と米の物語」(同年「風雪」10月号)と共に、長篇の一部である。社会小説なるものを、野間宏君とは異ったやり方ででっちあげるのが、私の念願の一つである。彼の如き膂力や信念に恵まれぬ私は、文字通り乱暴にでっちあげるより方法がない。馬傳事件、馬屋一家、同光子は、もちろん一般的象徴であって、特定のモデルにしたがったものではない。ただし光子的ぞんざい、光子的運命を身ぢかに感得したことが、私に創作への(勇気というには軽薄かも知れぬが)衝動をあたえた。「彼女」は、連鎖反応を無限に起す原子核的人物となった。(後略)」
 ここにある通り、百合子(作中の馬屋光子)は、横浜で外米の輸入を手広く行っていた鈴木弁蔵の孫として育った。だが大正8年に起きた米騒動の際に惨殺され、それをきっかけに一家は没落したという過去をもっていた。この事件は当時「鈴弁事件」として新聞で大々的に報じられた。さらにその後の戦争によって、彼女の生活はさらに困窮した。
 戦後、百合子は弟の鈴木修、のちの劇作家の八木柊一郎、いいだももたちと、知り合いの矢牧一宏の伯父が持っていた旧海軍の隠匿物資の砂糖を原料にして作った粒チョコを、東京近辺の菓子屋に行商してまわることで、食いつないでいたという。だが原料はすぐに底をつき闇商売がたちいかなくなると、彼女は森谷均がやっていた昭森社に編集者のふれこみで勤め、やがて森谷の命令で昭森社の一階にあったバー「ランボオ」に勤めることになった。この間、四度の堕胎を経験し、四度目には失神してしまうといった経験もしていた。
 いいだももによると、彼らは商売物の粒チョコには決して手をつけないのが掟だったから、百合子は甘いものに飢えており、武田に会って食べ物をねだるときは、決まって当時は高価だったチョコレート・パフェだった。(続)
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by monsieurk | 2015-08-22 22:30 | | Trackback | Comments(0)