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武田泰淳の「未来の淫女」Ⅱ

 鈴弁事件のことを百合子から聞かされたことが、武田泰淳が「未来の淫女」を書くきっかけになった。作品では、同事件は「馬伝事件」として語られ、主人公も「馬屋光子」と名づけられていて、武田自身も、「もちろん一般的象徴であって、特定のモデルにしたがったものではない」、「ただし光子的存在、光子的運命を感得したことが、私に創作の衝動をあたえた」と述べている。
 百合子が鈴木弁蔵の孫(百合子や修の父が、鈴木弁蔵に見込まれてその娘と養子縁組し、二人の子が生まれた。その後、娘である母親が亡くなり、父は再婚。そこに生まれたのが百合子と弟の修である。したがって百合子と祖父の弁蔵との間には直接の血のつながりはない)と知ったことは、武田に強い衝撃をあたえ、作家として創作意欲を掻き立てられたのだった。
 「未来の淫女」によると、中華民国の祝日に横浜中華街で、光子の口からそれを知らされたことになっている。
 「横浜の中華記念日に焼きそばを食べてから数日後、私は札幌へ向けて出発した。だが、ろくな講義もできずに戸位素餐〔のらりくらり〕、一ケ月ほどして私は又東京に舞いもどっていた。私の関心はすでに捉えがたいあの女の心から、確実な光子の肉体の方へグイと傾いていた。ひどい貧乏にも負けず、社会的不安にも衰えず、ひたすら快楽を求めて成熟をつづける馬屋光子の肉体は、たしかに私にとって安心できる場所であった。伝七の血の流れをうけた、健康素朴な光子の身体、その身体ゆえに生まれている燥鬱症〔あほう〕的精神状態には、世界情勢を追いかけ廻して息せき切らせ、神経をそそげだてている島国インテリの一人である私を、明確に批判するものが含まれていた。」
 自分が鈴弁の孫であることを告白したとき、百合子には、武田がはたしてそんな自分を受け入れるかどうかという、賭けに似た気持があったはずである。だが武田はそうした過去とともに百合子を全面的に受けとめた。それどころか、個人的関係をこえた、作家としてのある啓示さえ受け取る。
 「(光子)がたんなる私の女ではなくて、馬屋光子〔傍点〕であること。その事実がその頃の私にとって、次第に重要な意味を帯びつつあった。女を抱くことは、只その一人の女を抱くことではない。それはある血統、ある血続の一員である女を抱くことだ。そのような重々しい、無限にひろがる物を抱きしめているような想いが、馬屋光子を抱くたびに、私の胸にみちた。」
 こうして百合子は、武田泰淳にとってかけがえのない存在となった。
百合子は結婚後、武田の創作活動を支え、晩年は後述筆記まで引き受けた。そして1976年に武田泰淳が亡くなると、13年間にわたって夫武田泰淳、一人娘の花とともに過ごした山荘での思い出を、『富士日記』として綴り、見事な才能を開花させたのだった。
by monsieurk | 2015-08-25 22:30 |
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