マラルメのライヴァル、フランソワ・コペ
コペはマラルメと同年に生まれ、二人がメリー・ローランと関わった時期もほぼ重なっている。しかし彼女とコペとの関係は、これまでほとんど語られてこなかった。
フランソワ・コペは多産な作家で、毎年のように、詩集、戯曲、短編集を刊行した。なかでも主人公のザネット役を、名女優サラ・ベルナールが演じた『行人』(Passant、1868年)の成功で文壇に地歩をきづいた。
終生独身だったコペは、ほぼ30年にわたってメリー・ローランに心からの愛情を注ぎ、480通におよぶ手紙や短信――これまで未刊行――や多くの詩を送って、メリー・ローランを神秘的なブロンドの女神と褒め讃えた。
「愛は失われたが、私はかつて霊感をあたえてくれた
後光に包まれた額にいまだ苦しめられている。
私を詩人にしてくれたのはそのブロンドの髪だ。」
手紙に書き込まれた多くの短詩や、新年になどに贈られた状況詩では、メリーはこう描かれている。
「わたしの鳥さん、きみをマドリガルに詠いたい、
でもそれはきみにとってはどうでもいいこと
きみの身体、きみの髪、きみの肌は
百合を、黄金を、薔薇を想い出させる」(1887年12月30日)
さらに彼は、マラルメの「郵便つれづれ」に対抗するように、手紙の宛名を4行詩に詠い込んだりもしている。
「征服者の甘美な雰囲気を湛える夫人よ、
きみは、レンヌ大通り、9番地で、
ああ、わたしの手紙を、心のように
その半透明の爪で開いてほしい」(1884年5月24日付)
あるいは、
「卵みたいに禿げた郵便配達夫よ
この折った手紙をレンヌ大通り9番地の
ローラン夫人のもとへ運ぶことで
きみの広い心を見せてくれたまえ」(1892年9月25日付)
「沢山の宛名の中から、シテールの郵便配達よ
レンヌ大通り9番地、タリュ荘の
主、メリー・ローランと
間違えずに、読み取ってくれ!」(同日付)
メリー・ローランは、ブーローニュの森の近くにあった別宅、タリュ荘を 1890年冬から翌年にかけて改築したが、マラルメはこのとき、家具の購入から部屋の模様替えまで、すべてを手伝った。彼女のローマ通りのアパルトマンが19世紀の過剰な装飾で飾られていたのに対して、別荘の方はずっとシンプルだった。それは間違いなくマラルメの趣味が生かされた結果だった。そして別荘の改築がなると、フランソワ・コペはマラルメに遠慮することなく、すぐに一篇の詩を送った。
「メリー、わたしは君の新たな住まいのために
わたしのやり方でセメントと
わたしの優しい心で
きみの家の石を一つ一つ積んだよ」
メリー・ローランはまるで二人を競わせるように、この詩を恋のライヴァルであるマラルメの詩と並べて扉の上に掲げた。ただ、メリー・ローランをめぐる関係も、マラルメとコペの文学上の友情には何ら影響をあたえなかったように見える。二人は著書を交換し合い、共通の友であったヴィリエ・ド・リラダンが貧窮のうちに死去した際は、遺族のために奔走するマラルメを、コペが何かと手伝った。
マラルメ研究家、ジョイ・ニュートン(Joy Newton)は、いまだ未公開のコペの手紙を調査した。彼によると、ジャック・ドゥーセ文学文庫に所蔵されているコペの手紙は、赤革で5冊に装丁されていて、各巻の背表紙には猫の顔が描かれているという。整理番号はMNR MS 21-25 で、手紙は年代順に分類されてはいず、また手紙の多くは日付がないとのことである。
メリー・ローラン宛ての最初の手紙は、コペが上院の図書室で働いていた時期(1869年-1872年)にさかのぼり、多くの手紙には「子猫」(これは彼が自分につけた渾名)、あるいは「大きな鳥」(彼女に愛情を籠めてつけた名前)の絵が描かれているという。そして猫は、しばしば花を差し出しながら愛を懇願する姿をしている。
以下は、ジョイ・ニュートンの“Méry Laurent, icon of the fin de siècle”(Essays in French Litterature, The University of Western Australia, 40, November 2003. 後に“Méry Laurent, Manet, Mallarmé et les autres…“、Beaux-Arts de Nacy, 2005.に仏訳を再録)が引用しているコペの手紙である。
「私は自宅に帰ってきました。感動に酔い、きみに会え、きみを抱きしめられて幸せでした。きみを私のもの、私一人のものにする以外のことは望まず、願いもしません。」あるいは、「私は20歳のように恋をしています」と書いている。
「私は肖像画を持っていることに満足しています。いつも眺めています。」そして、仲間の葬式からの帰りに、たまたま彼女を見かけると幸せを感じた。「大きい鳥さんが突然バルコニーに姿を見せました、日本の着物の部屋着を着て。」
別の手紙では慎重さを心がけ、メリーの庇護者だったアメリカ人の歯科医エヴァンス博士と彼女の仲を乱すことがないように注意を払っている。
「貴女にはもっと用心してもらう必要がありますから、・・・オデオン座やフォワヨでは諦めることにしましょう。あそこで私たちは知られすぎていますから。」
メリー・ローランも、コペが創作上で不安を感じたときなどは、それを払拭するような忠告をあたえた。コペは1884年12月18日付けの手紙で、学士院の会員に選ばれるために諸々のことを行ったこと、その結果、ついに念願の会員に選出されたことを、勝ち誇った調子で伝えている。
「私は500通以上の手紙やカードを受け取りました。きみを少々笑わせるために、モンテスキュー〔エドモン・ド、モンテスキュー、貴族でマラルメや後にはマルセル・プルーストとも親しく交わった〕のものを送ります」。このときの別の手紙では、金の飾り紐で縁取りされた、学士院会員の正式な服装を着た猫のデッサンが描かれている。
コペの手紙は、文壇で生きていくためのさまざまな仕来りについても揶揄をこめて伝えている。 「私は、服を着てヴィクトル・ユゴーの家へ夕食に行くために、たった今起きたところです。ただただ鞭で打たれたくないという気持からね」。あるいは「私たちはどこかで簡単な夕食を取りましょう、そのとき『居酒屋でのお祭り』の奇行について、きみに話してあげるよ」。
さらにメリー・ローランは、コペが何か重大な決断をするとき、――たとえばラ・フレジエール=アン=マンドルに田舎の別荘を購入するときなど――それを真っ先に知らせた相手であった。また彼がよく罹った病気など、生活上の瑣事についても逐一知らせている。
彼は彼女の許に足しげく通ったが、そうした訪問のことも事前に手紙で伝えている。たとえば、「ネクタイをはずしてしまいたいと心から思います」、あるいは、「私が土曜日の5時にむさぼりたいのは、たった一つ大きな鳥さんです」といった調子である。
メリーは劇場やシャンゼリゼ大通りの流行のレストランに、コペと一緒に行かないときは、マラルメ、リュイジ・グアルド、女性の作曲家オーギュスタ・オルメス、女優のオルテンス・シュネデールといった友人とともに、彼を自宅の食事に招待した。
メリー・ローランとコペの関係には紆余曲折があった。(「昔のように夕食に行きましょう。それはもうすっかり昔のことになってしまいました。」そして、「また馬鹿をはじめようというわけです!」)。
彼らの関係は、おそらくコペの子どもを流産するといった事態を含めて、幾つもの危機を乗り越えて続いたのである。そして二人が愛人関係でなくなったあとも、彼らの友情は変わることがなかった。
コペは、「私の深い愛情をどうか疑わないでください」とも、「彼女は変わってしまった・・・。でも私たちはずっと友人のままです、それはこれまでにないほどです」とも書いている。
コペは終生、メリー・ローランに愛情をささげたが、それは彼女を女神のように思っていたからである。「きみは分かっているだろうが、私はきみを愛の神殿の特別の祭壇に祭って、その前では私の甘美な思い出の蝋燭がいつも炎をあげている。」
マラルメとメリー・ローランとの間で交わされた手紙は、ベルトラン・マルシャルが編纂して、ガリマール社から1996年に刊行された(Bertrand Marchal : Lettres à Méry Laurent, Gallimard,1996)。だがメリー・ローラン宛てのものを含めて、フランソワ・コペの手紙は現在もまだ未刊行のままである。時間があれば、ジャック・ドゥーセ文学文庫に通って、フランソワ・コペの手紙を調査したいところだが、誰か日本の若いマラルメ研究者が、この調査を買って出てくれないだろうか。