フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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男と女――金子と森の場合(Ⅱ)

 森三千代は1901年に愛媛県北宇和島町で生まれた。父幹三郎と母とくの長女である。父は伊勢の神主の息子で、郷里の神宮皇学館を出たあと国学者の上田万年に学び、宇和島で中学校の国語の教師になった。
 三千代は3、4歳のときから父親について『大学』の素読を習い、全部暗記するような子どもだった。小さいときから父の本箱から古典などを引き出して読み、小学校、中学校はずっと主席で通した。
 いつしか文学者を志望するようになった彼女は、1919年、18歳のときに伊勢の小学校の教員をしながら、東京女子高等師範学校の入試の準備をはじめ、そのかたわら大阪在住の詩人や歌人がつくっていた「地平」に作品を投稿したりした。そして翌1920年、女高師の入学試験に優秀な成績で合格し、念願の上京をはたして文科の学生となった。d0238372_1655457.jpg だが将来の教師養成を目的とした女高師範は全寮制で規律も厳しく、文学を志す森にとって期待した環境ではなかった。それでも学校では古典を中心にした講義で、貪欲に知識を吸収し、関心のある同時代の詩は雑誌などで読んだ。さらに学校外に文学仲間を見つけて交流し、やがて「詩神」や「詩聖」などの雑誌に詩を発表するようになった。
 関東大震災が首都圏を襲ったのは1923年(大正12年)9月1日で、お茶の水にあった東京女子高等師範学校の校舎も全焼して、教職員と生徒は茗荷谷の仮校舎に避難した。生活の環境は激変したが、森の文学への情熱は変わらず、川路柳紅や百田宗治などが活躍していた「日本詩人」などを読んで、詩作を学んだ。金子光晴の名前は、そうした雑誌で眼にした。金子光晴の詩集『こがね蟲』が新潮社から刊行されたのは、関東大震災直前の7月だったが、一部の詩人に注目された詩集を森が読む機会はなかった。
 震災直後、金子も年下の友人で画家志望の牧野勝彦(吉春)を頼って2か月ほど名古屋に滞在し、その後は実妹の捨子の嫁ぎ先である西宮の河野蜜宅に1か月、さらに佐藤紅緑、富田砕花のところに寄食した。そしてこの間、やがて『水の流浪』として発表される作品をノートに書いた。作品の多くは最初の上海旅行の産物であった。
 金子が東京に戻ったのは1924年(大正13年)1月で、赤城元町に三畳一間の部屋を借りて牧野と同居した。金子はこのころの様子を『どくろ杯』でこう述べている。
 「牧野の口から、城しづかや、蒲生千代、森三千代の三人組の女性の名が出るようになったのは、その頃だった。大阪の方に中心のある或る文学グループにつながりのある連中で、城しづかだけは『令名界』に少女小説を書いていてその方面で知られていた。夢二に肖像画を画かれたとかいう話で、夢二ごのみの少女であると言うことだった。蒲生千代は和歌をやっていて、いまは東京に出てきて大森辺に兄と家を借り、兄はまだ学校に通っていた。森三千代は詩が志望で、現に、お茶の水の女子高等師範の生徒で寮生活をしているが、校舎が焼けて茗荷谷の仮校舎にいたのを、このごろ新校舎が建って戻ったとかいう。熱をこめた勝彦の話しかたも手つだって、狭い三畳の湿っ気た空間に、お垂(さげ)髪のリボンや、振り袖の友禅もようや、曙染めがゆらゆらして、吉井勇がうたう瀟南のおとめたちに抱くような、遠いあこがれの感傷がこころを搾木にかけ、詩をつくることなどにかまけて失った幾年が、殆んど無意味なことだったように私にはおもわれるのだった。」
 金子はまだ見ぬ若い文学志望の女性たちに夢想と興味をかきたてられていたのである。(続)

 この項はまだ続くが、明日から会議出席のためテロ事件後のパリへ出かけるため10日間ほど休載する。
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by monsieurk | 2015-11-29 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)