ムッシュKの日々の便り

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男と女――金子と森の場合(Ⅳ)

 このときの森三千代はどんな精神状態にあったのか。彼女が伊勢ですごした女学生時代は、西欧近代の恋愛至上主義の風潮が移入された時期であり、イプセンの『人形の家』の女主人公ノラに憧れ、閉鎖的な家に縛られる女性のありかたに強く反発を感じていた。愛は純粋なものであり、女性にとっても恋愛は自由で、また結婚生活も愛がなくなればは当然解消され、惰性や偽善からそれを続けることは悪と考えられていた。
 d0238372_15322761.jpg東京の女子高等師範学校へ進学を希望した動機の一つには、文学を志したことであったが、もう一つには親元を離れて自立したいという思いもあった。森三千代が金子を訪問したとき、彼女はすでに詩人吉田一穂と恋愛関係にあった。北海道出身の吉田一穂は、金子より3歳年下の早稲田大学予科文科の学生で、詩や童話を書いていた。金子の『こがね蟲』の出版記念会にも参加し、1923年(大正12年)の夏には、金子や大鹿卓、牧野、宮島と大島に旅行したこともあった。
 「金子光晴の周辺9」(『金子光晴全集第4巻月報』のなかで、森三千代は、松本亮の質問に答えてこう述べている。
 「松本 (前略)この時期、ちょっとお聞きしているところでは、森さんは、吉田一穂さんとたいへん懇意だったということですが。
  そうなんです。吉田一穂さんとは、恋人同士だったんですけど、吉田さんには、お嫁さんになる人が決っていたんです。そのことは同人雑誌の友だちの蒲生千代さんから聞きまして、それで悩んでいたんです。吉田さんは当時はまだ大学の文科の学生で、下宿生活をしていました。その下宿である女の人とかち合ったことがあるんです。でも、それが吉田さんの婚約者かどうか、その時知らなかったんです。あとになって思い合して、そうだったなと思ったんです。そういうことがあったあとだったものですから、非常に悩んでいました。金子と会ったことで私の運命は大きく変りました。学校をやめることになって・・・
 松本 女高師をもう少しで卒業という・・・
  ええ。退学したのは四年生になった一学期のあとですから、あと一年足らずというわけです。
 松本 それで約束通り、最初に会った二日後に行かれて、その時金子さんはいかがでした。
  それがたいへんだったの。」
 森が金子と最初に会った二日後にまた金子の許を訪ねたのは、初対面の日の帰り際に、そう誘われたからでる。金子によれば、最初の訪問のとき、森は「炬燵へは入らず、炬燵ぶとんのむこうに逃げ腰のまま坐った。私と彼女の距離は、大袈裟に言えば百里の行程に感じられた。〔牧野〕勝彦の侫弁が私をよほどうり込んであったのでなければ、彼女は、ただならぬ気配を察してそのまま、逃げかえったにちがいない。文学や、詩について彼女は、私に質問した。詩や小説を書く目的でお茶の水の国文科に入学したが、所をまちがえたことにすぐ気づいた。校規を無視して自由奔放にふるまって、しばしば問題になりながらも、四年の学業を終り、秋には卒業を控えているということを勝彦からきいていたが、彼女があこがれる現代文学に就いては、おもしろいほどなにもしらなかった。もちろんそんなことは私にとってはどうでもよかった。彼女と文学を語ることよりも、彼女をふんづかまえることの可能性の方が問題だった。」
 この日は、金子の他に彼女を案内してきた牧野、実弟の大鹿卓や宮島貞丈もいたので、金子はもう一度訪ねてくるように言ったのである。森三千代の印象は、牧野に聞かされて想像していたよりもずっと野性的だった。そして友人たちが三々五々帰ったあと、金子は、「彼女がのんだ紅茶茶碗の唇がふれたところをさがして、そこから、底にのこった冷えたのみのこしをすすった。」
 森は約束通り、3月25日の午後に金子の義母の家を再び訪ねた。金子の『どくろ杯』によれば、「私が仕かけたかすみ網に、彼女はじぶんからかかりに来た」のである。この日の様子も、森は松本亮に語っている。
 「松本 その時はほかに人はいなかった・・・
  誰もいませんでした。お母さんもいなかった。金子は、相変らず炬燵にあたっていましてね。
 松本 そのへん、詳しく話していただけませんか。
  ・・・言いにくい(笑)。そうですねえ。少し話をしているうちに、おちつかないから、うちは鍵をかけておけばかまわないんだから、表に出ようかというので、神楽坂の紅屋という喫茶店へ行ったんです。そこでいっしょにコーヒーをのみました。その時金子は、大きなノートを一冊持ってきてまして、それをひろげて、今度これをまとめて一冊の本にしようと思うという話をしました。それが『水の流浪』だったんです。そんな話をしながらも、金子はなにかソワソワしていて。その時は私が伊豆の大島へ旅行しようと計画しているときだったんです。一人では心細いから、ちょうど学校が休みになるから、郷里から弟を呼び寄せていっしょに行くつもりだという話をしましたら、金子は、大島には一度行ったことがあるから、いっしょに行ってあげてもいいんだけれど、などといっていました。それから外へ出て、江戸川べりへ出たんだと思います。道々歩きながら、暗い――暗いというのは、人通りのない川べりのさみしい道で、いきなり、僕はあなたが好きなんだけれど、恋人になってくれませんかと、そんな意味のこと言ったんです。それで私、実は、吉田一穂さんとのことがあるんですと打明けて、吉田さんとのことを気持の上ですっかり解決して、吉田さんに会って事情を話してから、それからご返事しますから、といったんです。そうしたら、気持だけは、いますぐはっきり返事してくれって。でもそんなこといわれてもと、困っていたの。すると、気持だけでもはっきりしないのなら、今このノートを川の中へ叩きつけちゃうなんて、突然その分厚いノートを川へ放り込もうとするんですよ。びっくりして、ちょっと待ってちょうだいというわけです。いいわ、ウンというから、ということになってしまって。ずるいのね(笑)。そういうところはやんちゃですね。そうです。その晩は蒲生さんの家に泊めてもらったんです。」
 この日のことを一方の金子はどう記憶しているのか。『どくろ杯』では――、d0238372_15342949.jpg
 「炬燵やぐらを前にして私の演じたコメディは、それをうしろめたいと感じさせない、時代感情がうしろにあって、私はそれをおのが情熱とおもい、彼女もおそらくそうおもいこんでいただろうが、じつは、情熱のようにかき立てる性質のものではなく、萎靡がちなこころを笞うつためのうそ寒いエゴイズムで、それなればこそ、私は涙をながす潮刻までちゃんとこころえていたのだ。
 「君がもしいやと言うなら、それはせんかたのないことだが、私には活路が見つからない。むろん詩などを書きつづける気力はない」と言うと、ノートにペンでこまかく書いた詩集『水の流浪』の草稿を破りにかかった。真中から引破ると、彼女はおどろいて、私の手首をおさえ、「やめてください」とおろおろ声で言った。破りかけたノートにもつしみったれた惜しみを見透かされまいと私は、惜しみとたたかって破る手に力を入れたが、それは歌舞伎のさあ、さあ、さあであいての出方を見通しての芝居に類するものでうしろぐらい仕業であった。焼けたビスケットのように熱くて、甘ったるいにおいのする彼女の顔が、眺めているときの距離の限界を越えてこちら側に来ていたので、運命はそこから出発するよりしかたがなかった。彼女にとっては、気弱さがまちがいのものであった。後にお互いの精根をすりへらした長旅の道づれとなる、その踏出しが、この時代がかった瞬間にあったとも考えられる。唇でふれる唇ほどやわらかいものはない。寮の門限を気にして、あわてて彼女が帰っていったあと、風は落ちて、表障子にさすまっ真正面の夕日が、玄関の格子戸の影を映して、百挺の蝋燭を立ててその焔が、一ゆらぎもしない瞬間のようにみえた。」
 金子光晴の『どくろ杯』が書かれたのがこの出来事があってから45年後、森三千代の対談はさらにその10年後のものだが、状況から推測して、二人は森が語るように、間もなく外へ出かけたのであろう。したがって『水の流浪』の草稿を記したノートを破ろうとする大時代の出来事は江戸川べりで起こったと考えられる。金子の『どくろ杯』の記述は多分に修辞的である。
 翌日、森がふたたび金子を訪ねてきた。そして泣きながら、吉田とのことが自分の気持のなかで整理がつかない。昨日は金子が吉田の知人と知って、相談したい下心で訪ねてきたのにあんなことになってしまった。昨夜は寝もやらずに考えたが、金子との関係を続けていけば、結局は自分自身を苦しめ、しかも自分の立つ瀬もなくなると気づいて、謝りに来たと言った。金子はそれを聞いて、一度はあきらめる気になった。
 森の回想によれば、彼女はこの日から2、3日は、大森の蒲生千代の家に泊まらせてもらい、大島行きに同行する弟が伊勢から上京するのを待った。そして伊豆旅行に発つという日の明け方、まだ彼女たちが寝ているうちに金子が訪ねて来て、詩集『こがね蟲』を一冊もってきた。森はこの大島旅行のあいだに、はじめて『こがね蟲』を読んだ。(続)
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by monsieurk | 2015-12-13 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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