ムッシュKの日々の便り

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男と女――金子と森の場合(Ⅵ)

 金子と森は、お腹のなかで育っていく子どももことにはあえて触れずに、浅草や東京の下町を探訪して日をすごした。森は夏休みに三重へ帰省せずに、金子と一緒に旅行してまわる計画ができた。『水の流浪』が新潮社の詩人叢書の二十巻目として出版することが決まり、前金を手にすることができた。そこへ青森の弘前に帰っていた福士幸次郎から誘いがあって、東北を旅行することになった。金子にとっても久しぶりに東京を離れて気分を一新するよい機会だった。『どくろ杯』にはこうある。
「松島を見物し、平泉を詣でて、朝、弘前から一つ先の碇ケ関に着いた。温泉場を流れる岩木川の支流平川の畔に、福士夫妻と幼い娘たちの住む小家があり、川をへだてたすじ向いの百姓たちの疲労休めにくる小宿を借りて、私たちが住んだ。雨戸を開ければ、福士家の動静が見通しだった。足のふくらはぎまでしかない流れをわたって、福士は遊びに来たし、私も、彼女を背負ってその河をいったり、来たりして、百姓の湯治客たちの眼をおどろかした。私たちの放埓なくらしぶりが話の種となってひろがり、碇ケ関の温泉場へのゆききも、人々が立止まり、あとをふり返って見送った。」
 詩壇の論客である福士幸次郎(写真)は、d0238372_10231628.jpg金子の才能を早くから高く買い、『こがね蟲』の出版記念会の音頭をとってくれた一人だった。金子の方もそうした彼に恩義を感じて、今度出版する『水の流浪』は福士に献ずることにしていた。ただ実生活上の福士は、貧乏ながら、それに超然とした一風変わった人物だった。碇ケ関に滞在中にこんなことがあった。
 ある日金子たちが昼食の用意をしていると、鉢巻きをした福士が飄然とあらわれて、煙草を買いたいので銅貨を二枚貸してほしいと言った。聞くと、朝の七時に銅貨を七枚手に握って家を出たのだが、川を渡ってくる途中、石につまずいた拍子に七枚とも川のなかに落としてしまった。落とした場所はわかっているので、川上に石を積んで堰をつくって流れをとめ、いままで探して五枚は見つけたが、どうしてもあとの二枚が見つからない。巻き煙草の「バット」を買うにはあと二枚必要だから、それを貸してほしいというのだった。川に落とした銅貨を四時間近くも探していたのである。金子と森は呆然とするばかりであった。二人は碇ケ関に一カ月近く滞在したあと、十和田湖をまわって八月末に帰京した。
 秋になって学校がはじまったが、四カ月に入ったお腹が目立つようになった森は、寮に戻るわけにはいかなかった。何の目途もないまま、赤城元町の家の二階の八畳間で二人の生活がはじまった。近くの寄席や映画館を見て歩き、知り合いに出会う危険をおかして、上野の展覧会や動物園を訪れたりした。
 学校に知れるのは時間の問題だった。案の定、上野行きから二、三日すると、級友の津田綾子が赤城元町の家を訪ねてきた。聞けば、動物園で二人を見かけた同級生が二人を家まで後をつけて、舎監に伝えたのだという。森と親しい津田が選ばれて様子を確かめに来たのだった。
 もはや学校に隠してはおけなかった。事実が学校に知れれば、放校ではすまずに、四年間の授業料や寮費を返還しなければならない可能性もあった。学校から森の親元に通知され、折り返し、父親が上京するとの電報が届き、その翌日父親が姿をあらわした。
 「初対面は、妙に双方とも遠慮がちで、まるで脛にきずもつ同士が、そのきずにふれられるのを怖れてでもいるような案配式で、下をむいたり、眼がぶつかるといそいでそらしたりしていた。彼女は、台所で酒のしたくをしていた。坂下にある惣菜のえびの天ぷらを私が買ってきた。十銭に三個という、その当時でも人がびっくりする安価であったが、父親は「うまい。さすが東京はちがったものじゃ」と舌鼓をうった。いい加減で私が階下に引きさがったあとで、彼女が酒のあいてをしながら、こまかい事情を話すことに手筈がきまっていた。私は、三畳の古巣に戻って、ぼろ布団を引きかぶっていた。夜更けになって、(中略)みしみしと彼女は下りてきて、私の黴臭い布団にもぐり込み、私のうえから羽交いじめにしながら、「すっかり話したわ。黙ってうなずいてきいていたけど、御小言は出なかったわ。そして、最後になって、金子さんと添うつもりか、もし、みこみがないとおもったら、子供は心配ない。こちらで引きとって育てることにして、別れるように話してやるって。やっぱり、おやじね」と言って、熱い息の唇を私の顔に押付けてきた。「それで、なんと言って答えたの」「別れないと返事したわ。それでよかったの?」彼女は、興奮で声をうわずらせていた。」(『どくろ杯』)
 翌日、父親は女子高等師範学校に出向き、北見舎監に会って話をつけてくれた。北見先生は案外物分かりがはやく、病気退学として取りはからってくれた。このため普通退学ならば必ず本人の負担となる四年間の月謝も免除となった。森三千代は国元に帰ったことにして、医者の診断書を二通送ってことはすんだ。北見先生は父親に、「あの娘は、頭が切れるし、女としては傑物だが、教育家には向かない。奔放な情熱家だから、もっと他の天地で、十分に羽翼をのばさせてやりたい。何十年娘たちを教育してきたが、勝手放題なことをしておきながら少しも悪びれないで、堂々と自分のしたことの正当さを主張してひきさがらないあんな娘のようなのは始めてだ」と言ったという。娘に甘い父親は得意そうだった。父は三日二晩、二人から酒びたりにされたあと、伊勢に帰って行った。こうして式も披露宴も抜きにした二人の結婚生活がはじまった。
 そして二人は大正14年(1925年)2月12日に婚姻届をだした。保証人には室生犀星がなり、2月27日には、三千代が高樹町の日赤病院で男の子を生み、乾(けん)と名づけた。名づけ親は佐藤紅緑で、3月1日に牛込区役所に届けた。(続)
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by monsieurk | 2015-12-19 22:22 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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