ムッシュKの日々の便り

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男と女――金子と森の場合(Ⅶ)

 子どもが生まれ、親子三人の生活は心はずむものだった。金子は赤ん坊のおむつを替えるなどして世話を楽しんだ。春になったある日、三千代が赤ん坊を背負い、金子が手におむつの入った袋を持って銀座を歩いているところを新聞社のカメラマンに写真を撮られて、それが新聞に載った。春めいた日の銀座風景ということでカメラマンの興味を惹いたのである。すると二人を知っている者たちが、男のくせにおむつ袋を持って歩いているなどみっともないと非難の手紙をよこした。だが金子は意にも介さなかった。
 このころ神田の出版社「紅玉堂」から、先輩の口利きで、翻訳詩集『仏蘭西名詩選』とアルセーヌ・ルパンの『虎の牙』の訳を出したが、出版社からはなかなか金を払ってもらえなかった。それでも彼ら親子三人は、大森の不入斗〔いりやまず〕に下宿を見つけて、そこに引っ越した。屋根に石油缶のブリキを張った二部屋限りの長屋で、夏の暑さがこたえた。
 困ったのは、生後六か月になった乾が、いくら乳を飲んでもみな吐き出してしまうことだった。医者の診断は母親の三千代が脚気になったせいで、乳を赤ん坊に飲ますことを禁じられてしまった。やむなく牛乳や粉ミルクに変えたが、一度母乳の味を覚えた赤ん坊はゴムの乳首に慣れず、ミルクを飲まなかった。それに夏痩せが重なり、乾はみるみる痩せていった。
 二人は、赤ん坊の命があるうちに長崎の三千代の両親に一目合わせたいと考え、さらに子どもを育てた経験のある両親にすがる思いもあって、八月末に長崎へ向かった。三千代の父は伊勢から長崎の東山学院中学へ転任になっていたのである。
 金子は三千代と子どもを両親に預けると、すぐに東京へ戻って行った。長崎はエキゾチックな風情を湛えた土地柄で、三千代は気に入り、脚気も次第に治って、赤ん坊に乳をあたえられるようになった。金子は手許に残していた掛け軸や骨董のほとんどを手離し、正月には「毎日新聞」に佐藤紅禄の代筆で正月の随筆を書いて百円の稿料を得た。こうした集めた金を手に長崎へやって来ると、三千代にこの際上海へ旅行しようと言い出した。d0238372_1629977.jpg当時長崎と上海には定期航路が開設されていて、二十四、五時間の船旅だった。
 森三千代の回想――
 「松本(亮) 長崎にはどのくらいいらっしゃったわけですか。
  翌年の四月ごろまでいました。
 松本 その機会に上海へ行かれるわけですね。
  ええ。すっかり子供は快復して、私も脚気が治りますしね。(後略)
 松本 ときどきは金子さんもごいっしょですか。
  ええ。少しは。金子は子供と私を長崎へ送ってきただけで、すぐ東京に帰りまして、私たちは健康が快復して、迎えにきたとき、いきなり上海に行かないかって言い出して、上海行きということになりました。佐藤紅禄先生のところへ行って、先生のお仕事をお手伝いしてたか、それとも自分の仕事を、先生になにかお世話を願ったか、そんなことで上海行きのお金が出来たんじゃないでしょうか。そのとき、谷崎潤一郎先生からいただいた紹介状なんか持ってましてね、上海での中国人の方たちへの紹介状を。だから、ちゃんと手はずを整えてやってきたんです。子供を長崎にあずけて出かけました。そんなわけでこのときの上海旅行は、後の上海滞在とは違って、苦労はありませんでした。私なんか洋服などありませんでしたから、春の洋服をつくってもらったり、それから杭州の景色を見に、ずっと泊りがけで出かけたりしました。贅沢はしないけれども、苦しまない旅行です。金子もずいぶん楽しんだようですよ。一カ月ほどの旅でしたけれども。」(「金子光晴の周辺10」)
 金子光晴は、さらに詳しくこの旅の模様を伝えている。
 「上海の滞在は、私たちにとって小さな祭りだった。谷崎の紹介状が懇切をきわめていたので、いたるところでおもいがけない便宜をはかってもらえた。なんの見どころもない、そのうえ因縁の浅い私を、彼がなぜ、そんなに厚遇してくれたのか今も猶理由がわからない。郭沫若には上海にいなくて会えなかったが、他の人たちとは、皆、会うことができた。村田孜郎〔大阪毎日新聞の記者〕は着いた日、私たちを四馬路に案内し、天蟾舞台〔てんせんぶたい〕の京劇をみせてくれた。内山完造〔内山著店の主人〕はすぐ前の余慶坊の住居を用意してくれ、始終こまかい世話を焼いてくれた。田漢とは、胸襟をひらいて語りあい、湖南の友人たちのパーティに再三誘ってくれた。銀の宮崎議平や、石炭の高岩勘二郎が私たちを援助して、蘇州、杭州、南京(蒋介石の首都となる前の荒廃したままの金陵の地)を、折角来た序〔ついで〕というので見物させてくれた。江南はまだ、革命後の軍閥の五省の督軍孫伝芳の治下にあった。陰謀と阿片と、売春の上海は、蒜と油と、煎薬と腐敗物と、人間の消耗のにおいがまざりあった、なんとも言えない体臭でむせかえり、また、その臭気の忘れられない魅惑が、人をとらえて離さないところであった。私たちは日本へ帰ってからも、しばらくその祭気分から抜けられなかった。」(『どくろ杯』)(続)
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by monsieurk | 2015-12-22 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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