ムッシュKの日々の便り

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男と女――金子と森の場合(Ⅷ)

 金子光晴と森三千代の夫婦は、中国旅行から帰国すると、息子の乾をあずけていた長崎の三千代の両親のもとに寄り、乾と三千代のすぐ下の妹で、女学校を卒業したばかりのはる子をつれて帰京することにした。大正14年(1925年)5月のことである。この年、金子は31歳、三千代24歳であった。ただし帰京するといっても住む場所の当てがなく、金子は途中湯河原の旅館に三人をしばらく滞留させて、一足先に東京に戻った。中央線沿線の中野と高円寺の間に、仮普請の二軒長屋を見つけてそこに住むことが出来た。義母と折半した義父の遺産はすべて使い果たしていたから、生活の目途はまったく立たなかった。
 「この新しい世帯は、世間しらずのふうてんの天使たちの住家であった。妹のはる子は、風船に乗って空を飛んでいる天使だった。先になんの成算もなしで、しあわせにしてくれるあてなどないことが一目でわかるような私に、いっさい任せたような顔をしてついてくる三千代も、浮世ばなれした存在だった。子供は、いうまでもなく、この姉妹のペットだった。彼女たちは、私の能力を信じ、私が他人のあいだで尊重される存在のように過信していた。」(『どくろ杯』)
 金子は詩や短文を書いて雑誌に発表したが、原稿料は微々たるもので、到底大人三人と幼い子どもが口に糊するには足りなかった。友人、知人から金を借りて日々やりくる生活で、近所の店にも借金がたまる一方だった。金子はそんななかでも、森の希望をかなえさせたいと努力をし、昭和2年(1927年)3月、彼女の処女詩集『龍女の眸』(紅玉堂書店)が、野口米次郎の序文付きで出版された。自費出版であった。念願の詩人の仲間入りをはたした森の喜びは大きかった。d0238372_1717541.jpg
 その上、森との共著で中国旅行の小景詩を集めて本にする相談がまとまり、一冊一円で売ることにして、金子は知り合いの詩人や文士の間をまわって予約をとり、先払いをしてもらいに歩いた。二百部刷る予定で、百十人分の予約をとることができた。ただこうして集めた金も、あらかた足代や食事代に消えてしまい、家には半分も持って帰ることができなかった。それでもこの年の5月には、赤いラシャ紙の表紙の『鱶沈む』(有明社出版部)が刊行された。有明社は古くからの友人である小山哲之輔がやっている印刷所で、おもに浅草界隈のチラシの印刷をやっていた。
『鱶沈む』には表題のほか八篇の詩が収められている。「鱶沈む」はこんな詩である。

        一
白昼!
黄い揚子江の濁流の天を押すのをきけ。

水平線にのりあげる壊れた船欄干に浮浪人、亡命者の群。
流れ木、穴のあいた茣蓙の帆、赤くさびた空鑵、のほうずな巨船体が、川づらに出没するのみ。
おゝ、恥辱極るはれがましい「大洪水後」の太陽。

 盲目の中心に大鱶がふかくふかく沈む。

 川柳の塘添ひに水屍、白い鰻がぶら垂つてゐる。

錨を落せ!

船曳苦力のわいわいいふ瑪頭(メトー)の悲しい声をきかないか。
いや。底にあるは闇々たる昏睡なのか。
 ・・・排水孔のごみに、鷗らが淋しく鳴いてむらがる。

大歓喜か。又は大悲嘆であるか。
おゝ、森閑たる白日、水の雑音の寂寞。

黄い揚子江の濁流の天に氾濫するのをきけ。

        二(以下略)

 1917年のソビエトの誕生、さらに第一次大戦後の非戦運動の波は、日本にも確実に押し寄せていた。プロレタリア文芸運動のさきがけとなった、小牧近江や金子洋文たちの雑誌「種撒く人」が大正10年(1921年)2月に創刊され、これをきっかけにプロレタリア文学は急速に勢いを増し、それとともに従来の文学者たちは鳴りをひそめざるを得なかった。ただ左翼文芸運動は政治的な路線に強く左右され、社会民主主義と共産主義の対立が、文学のなかにも対立を呼び起こした。そしてこれら既存の路線を否定するアナーキストたちが詩壇では幅をきかせていた。
 彼らは金子より五歳から十歳若く、酒を飲んでは激論をたたかわし、挙句の果ては、灰皿を投げたり、椅子を振り上げたりの乱暴狼藉を繰り返していた。岡本潤、萩原恭次郎、壺井繁治と言った人たちで、金子の詩は時代おくれと思われている気配だった。一方、金子はそんな彼らの行動を苦々しく思っていた。「結構、彼らは、酒を飲んで、女をつくって、同志の家をけんたいで食いあるいて、その上上手に生きてゆく方途も知っていた。明治維新の志士と称するごろつき浪人どもが、大義名分にものを言わせて、大言壮語し、富裕な商人の合力にあずかっていたのと、それほど変わらないのではないかとおもう気持ちは、いまも変わらない」と、『どくろ杯』に書いている。
 この間、金子は借金がたまると借家を変えるといった繰り返しだった。横光利一に勧められて、三百円の賞金目当てに、小説「抱卵」を書いて改造社の第一回懸賞小説に応募したのは昭和2年(1927年)夏のことである。横光や佐藤春夫に見せると太鼓判をおしてくれたが、結果は次席となり、以後小説を書くことを断念した。「芳蘭」は上海の労働問題をあつかい、女工とも娼婦ともつかない女のことを書いた百枚ほどの作品だった。その後も詩を書いては雑誌に発表したが、次第に行き詰まりを感じるようになった。
 「孤独は、人間臭い馴合いの反面であった。詩や詩人から一まずぬけ出すことが、現状をはっきりつかむことの要件だとおもったので、詩的、文学的なものから、つとめて身を避けるようにした。妻の三千代は、私とは別の心境で、文学や詩に志しながら、初志を果たすことができず、育児と貧しいくらしの炊(と)ぎ洗濯にあけるここ一二年の空虚を取り返して、新しい時代の知識や感覚を身につけようと私からみると逞しい意欲をもっていた。そして、私などについていても、得るものは今日の役にたたない時代遅れな教養だけだということに、ようやく気づきはじめてきたらしい。(中略)ふたりを結びつけているものは、子供への愛情と、恋愛のほとぼりがまだどこかにのこっているからだ同士のひかれあいであった。」(『どくろ杯』)
 こうした意欲のずれが、やがて金子と森三千代のあいだに抜き差しならぬ問題を引き起こすことになる。(続)
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by monsieurk | 2015-12-25 21:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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