ムッシュKの日々の便り

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男と女――金子と森の場合(ⅩⅦ)

 三千代が鰻屋に戻ってきたあと、三十分ほどすると下駄の音をさせて金子が帰って来た。三千代の顔を見てびっくりしたようだった。この日も井上康文、吉田一穂、それに吉田一子と銀座へ出かけていたのである。金子は一子とはその後親しくなり幾度か会ったが、自分の心のうちを覗いてみて、妻の恋愛と比べてひどくみすぼらしいものに思えて、それ以上進展しなかった。
 出発予定日の前に帰ってきた三千代の方が主導権を握った格好だった。
「青春の放浪」によれば、のちに金子は三千代に、この時の心境を次のように語ったという。
「――発つ時は、正直に億劫だったんだ。誰か一人でも、やめた方がいいと言ってくれたらすぐやめたんだが。・・・なぜ、やめたらどうだいと、誰も言わなかったんだろう。俺はヨーロッパへは二十歳の時一度行って、よく知っている。二度行きたいほどの興味もない。苦しみを承知の向うみずな旅を、どうして、自発的に思いとどまらなかったろう。行くと言いだしたからは、周囲へのはりあいでゆくということもあるにはあるが、あの出発間際頃には、実のところ、そんなことはどうでもよくなっていた。君の問題も実際上、子供の処置を別にしては、未練は未練としても、ともかく精神上の平衡をとりもどしていたんだし、世間の風評もそんなに気にならなくなっていた。時には、君の恋人と君との一つ寝床のありさまを目にうかべても、嫉妬にかりたてられるかわりに、よその楽しげな情景でも見物しているような気がすることもあった。君がちょいちょい会いに行くのをだまってみていたのも、そんな気持あったからだろう。(中略)君等に憎悪の感情を持たなかったとはいわないが、正直いうと、俺は、そのころ、自分の憎悪や嫉妬にすら懐疑的だったのだ。なに一つにも、いいわるいと判断の下せない無気力な状態にいた。その上不義理な借金が身辺に重なっていた。不義理を不義理と感じる、いわゆる良心というものも麻痺していた。あたまも濁っていたし、仕事の上でも絶対的だった。(中略)俺をヨーロッパへひきずっていったものは、ヨーロッパの魅力でもなければ、面子でもない。愛欲生活への執着でもない。君も知っている俺の無意識な偏執的傾向、無気力の情勢といった方があたっているかもしれないが、俺をヨーロッパまでひっぱっていったものは、それなんだ。俺は当面のわずらわしさが厭さに、却って外国旅行なんて飛切り煩わしいことをえらんだことになる。」(「青春の放浪」)
 いまや二人にとって、ヨーロッパ行きは当初の輝きを失っていたが、紆余曲折をへた末に、予定通りに出発することが決まった。翌八月三十一日、金子は知り合いに頼んで家具一切を売り払った。その他の金もかき集めて五十円ほどになったが、下宿先の鰻屋への支払いがかさんでいて、それを払うと手許には十円足らずしか残らなかった。世間にたいして一番肝心な渡航の挨拶状は、もはや印刷が間に合わず、謄写版で五十枚ほどの葉書を刷って、出発の朝にポストへ投げ込んだ。
 九月一日は二百十日のいい伝え通り、朝から強い風が吹き、雨が降っていた。夕方、二人はそれぞれ鞄を一つずつ下げて東京駅に向かった。手許の金では目的地の大阪までの切符が買えず、とりあえず名古屋までの切符を二枚買った。朝から鰻屋に来ていた井上康文だけが駅まで見送りに来てくれた。汽車が動き出そうとしたとき、知らない女性が走ってきて、井上に森三千代のことを尋ねた。彼女が窓から顔をだすと、「女人芸術」第二号の原稿料だといって祝儀袋を渡した。なかには十円札が一枚入っていた。
 二人の苦難の旅がこうして始まったが、彼らはすぐにヨーロッパへ向けて旅立ったわけではなかった。名古屋で降りた二人は、「新愛知新聞」文化部の記者に会って、その場で書いた原稿を売込み、それで得た金でその日のうちに大阪に着いた。そして大阪に二カ月ほど滞在した後、秋の終わりに息子の乾がいる長崎に着いた。彼らが上海行きの連絡船の客となったのは、11月末のことであった。
 「義父が、西洋人が払下げたものらしい、豚革の大きなトランクを買ってきた。私は、気がすすまぬながら、上海丸の切符二枚を買いにいった。日取りが決まると、今度は、彼女が、子供とはなれたくないので、悲しみ悶えた。子供があそび惚けているあいだに彼女はそっと姿をかくした。波止場には、父親と妹二人と、高島〔長崎での知人〕とが見送りに来た。午後おそくの解纜で、一夜を過ごすと、翌朝は、もう上海であった。入れこみの三等船倉の広畳のすみっこに席をとると、彼女は病人のように、肩掛けをかぶって寝込んでいた。その肩掛けを持ちあげて顔をのぞいてみると、袖を噛んで嗚咽の漏れるのを殺していた。」(『どくろ杯』)
 金子光晴と森三千代の旅はこれから五年続くのだが、上海に滞在中も、森は土方のことを忘れたわけではなかった。ある日、金子は三千代宛ての土方の分厚い手紙が届いているのを見つけて、三千代があわてた。封筒には、手紙と一緒に、操り人形の三匹の馬を描いた絵が入っていた。土方が彼女の詩集に表紙にするために描いたものであった。三千代はかねてから自分の詩集をつくりたいと言っていたが、上海に来てからも東京の間で頻繁に手紙がやり取りされて、話が進んでいることを金子は初めて知った。手紙には、土方がバクーニンからマルクスに転向したことや、三千代が金子の言いなりになって上海へ行ったことへの怨嗟が書かれていた。そして三千代の詩稿は、子どもへの愛着と「コークスになった心臓」という長篇の恋愛詩を含むものだった。
 金子はそれを知ると、意地でもその詩集を上海で出してやることに決め、内山書店の店主の内山完造の紹介で、小さな印刷所を見つけて印刷を頼んだ。この話をすると、三千代は思いのほか喜んだ。金子がこのとき感じたのは、「そのよろこびの底ににじんで出るもう一つの人影に私はさしてこだわる気持ちはなかった。」「よそに恋人をもってその方に心をあずけている女ほど、測り知れざる宝石の光輝と刃物の閃きでこころを刳(えぐ)るものはない。」(『どくろ杯』)というものだった。半月ほどすると、三千代の薄い詩集『ムヰシュキン公爵と雀』が出来上がった。三千代と土方の愛の結晶ともいうべき詩集を読んで、金子の心は穏やかではなかったと思われる。事実、彼はこの詩集については多くを語っていない。
 彼ら二人のもつれあう関係はこれ以後も続いて行くが、それはまた別の物語である。それにしても、二人の間で繰り広げられた男女の関係はなんだったのか。
 森は『金子光晴全集』の月報12で、「今からよく考えてみますと、三人ともみな真剣なんですの。そういう時代に、金子は金子で、HさんはHさんで、私は私なりに、それぞれの立場で、ほんとうに自分の道を真実に――真実という言葉はなんかキザですけれども、生きようとして、そして苦しんだ果てのことだった、という気が今しているんです。」と語っている。d0238372_173468.jpg
 そしてもう一つ見逃せない森の証言がある。息子である森乾は早稲田大学のフランス文学科の教授となり、金子が亡くなったあとに、父光晴に捧げるオマージュ、「金鳳鳥――父・金子光晴に捧げる」を書いた。これは雑誌「群像」1976年11号の巻頭を飾った作品で、そのなかに次のような一節がある。母の三千代は初美、父は晴久として登場する。裕は語り手の彼自身である。
 「初美は或る程度魅力的で、また社交好きのはでな性格ゆえに、晴久だけに頼らず己が道を選択しようとしていた。
 それがもし自分が妻を拘束し、独占しようとする従来の亭主にすぎないと彼女が思うようになれば、彼女は自分を軽蔑し、離れてゆこうとするにちがいない。
 晴久が初美に寛大な良人たらんとした理由の第一は、そこにあった。
 そして真実彼が寛大な男であろうとする希求もあった。
 だが、もう一つ、これは死後、裕が生前の父親を理解しようと、分析をしてみたのだが、晴久には或いは自分もはっきり意識しなかったかと思われる「生れ育ち」からくる習癖のようなものがあり、それが寛容の第二の原因だったらしい。
 父親の一周忌から二ヵ月たった或る日、裕と晴久の思い出話をしていた初美が急に云った。
「おじいちゃんは、あたしの時もそうだったけど、恋人をつくると必ずその女には別の男がいるの。そして、その男と恋人がくっついたり、或いはわざと自分でその二人の仲をとりもとうとさえして、危っかしい崖淵に立たせるの。それを眺めて、自分をいじめて楽しんでいるようなところがあったわ」
「そうかも知れない。・・・一種のマゾヒズムかな」
 と裕は合づちを打った。
 自分をコキューの立場に立たせて、自分からいじめるそんな傾向は晴久だけの趣味とは限らない。真実、そういう破局に陥ることを望む人は少ないにちがいないが、心の中で自分をそういう立場において、一種の快感を感じると想像することは裕にだってあり得ると思った。
 己が女房を他の男と交接させて、自分はそれを目の前で凝視している。嫉妬、憎悪、羨望、憤怒のいりまじった感情が昂進し、自分も激しい興奮状態におかれるだろう。すると己がマゾがふしぎな経路で内攻し、今度は妻に対するサディスティックな欲望へと転化する。
 それが動機となって、マンネリ化し、何の衝動も妻に対して感じなくなっていたのが、突然新鮮な魅力を覚えるようになり、とだえていた性行為が復活する。
 そんなことは、ちょっと考えても、大いにあり得ることだった。
 そして、それは、大いなる犠牲を払って、他の男に妻を売る行為と等しく、喪失感から余計専有欲にとりつかれるかもしれない。」(「金鳳鳥――父・金子光晴に捧げる」)
 森三千代は先に引用した、「金子光晴全集」の月報12で、「私が無軌道だったんです。」とも語っているが、土方定一をはさんだ金子との愛憎劇は、あながち森の一方的な行為ではなかった。そこには金子の潜在的な衝動がかかわっていたのである。戦後になって、「青春の放浪」で自らの恋愛遍歴を赤裸々に明かしたとき、彼女は金子のうちに潜むこの欲望に気づいていた。それでも書かなければならなかったのは、作家としての業であった。(「男と女――金子と森の場合」第一部、完)
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by monsieurk | 2016-01-26 21:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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