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アルベール・カミュ「アルジェの夏」Ⅵ

 大地との絆を感じ、ある人たちへの愛を感じ、心が親近性を見出す場所がどこかにあるのを知ること、ここにはすでに、人のただ一度の生に対する多くの確信がある。ただもちろん、これだけで十分というわけではない。しかし皆があるときには、こうした魂の国に憧れる。「そう、そこだ、われわれが帰りゆく先は」と。プロチノスが切望したのはこの結びつきであり、この地上に、それを見出そうとすることに、なんの不思議があるだろうか? 結合はここでは、太陽と海という言葉であらわされる。それは、苦痛と偉大さを生じさせる肉体のある種の風味として心に感じられる。超人的な幸福などなく、日々が描く曲線のほかに、永遠などないことを、私は学んだ。こうした取るにたりない、だが本質的な幸福、この相対的な真実が、私を唯一感動させるのだ。その他のもの、「理想的なもの」を理解するには、私の魂は十分ではない。獣のようでなければならないわけではないが、私は天使たちの幸福には意味を認めないのだ。私はただ、この空が私より続くのを知っているだけだ。そして私が死んだあとも続くものを除いて、何を永遠と呼べばいいのだろう? 私はここで、それぞれの条件に置かれた被造物の自惚れのことを言っているのではない。それはまったく別のことだ。人間であるのは、いつでも容易なことではない。まして一人の純粋な人間であることはなおさらのことだ。だが純粋であるとは、あの魂の国をふたたび見出すことだ。そこでは世界の類似性が感じられるようになり、血の脈動が、あの午後二時の太陽の激しい波動と重なり合う。祖国とはそれが失われるときに、認識されるのは周知のことだ。自分自身のことに悩まされすぎる人たちにとって、故国とは彼らを否認するものだ。私は残酷であろうとも、誇張して見せようとも思っていない。ただこの生で私を否定するは、なによりもまず、私を殺すものだ。生を昂揚させるすべては、同時にその不条理を増大させる。アルジェの夏では、たった一つのことが苦悩よりもさらに悲劇的なこと、それが決して幸福な人間の生ではないことを私は学んだ。ただしそれは一層偉大な生への道でもあり得る。なぜならそれは、ごまかさないことに通じるからだ。
 事実、多くのものが愛そのものを避けるべく、生きることを愛しているように装う。人びとは楽しもうと、また「経験を積もう」とこころみる。だがそれは精神の見方だ。快楽の追求者であるには、まれな資質が必要だ。一人の人間の生活は精神の助けなしに、彼の後退と前進、同時にその孤独と現存で達成される。ベルクールの男たちは、働き、妻と子を護る。しかも多くの場合、愚痴もいわずにそうするのを目にして、彼はひそかな恥じらいを感じているのではないか、と私は思う。もちろん私は、幻想など抱いていない。私がいま語っている生には、愛など多くはありはしない。だが少なくとも、それは何もごまかさなかった。私には決して理解できない言葉がある。例えば罪という言葉だ。この人たちが生に対して、決して罪を犯さなかったのを、私は知っている。なぜならもし生に罪があるなら、それは生に絶望することではなくて、別の生を希望し、あるいは生の仮借ない大きさを免れようとすることだ。この人たちはごまかさなかった。彼らは生きることへの情熱で、二十歳のとき夏の神々となった。そしてすべての希望を奪われ、いまもそのままだ。私は彼らのうちの二人が死ぬのを見た。彼らは恐怖で一杯だったが、落ちついていた。その方がまだいいからだ。人間の悪がひしめくパンドラの箱から、ギリシア人はいろいろないものをとび出させたあとで、もっとも恐ろしい希望をとび出させた。私はこれ以上感動的な象徴を知らない。というのは、希望は人びとが信じているのとは反対に、諦めに等しいからだ。そして生きるとは諦めないことなのだ。
 ここには少なくとも、アルジェの夏の厳しい教えがある。でもすでに季節はふるえ、夏は移り行きつつある。あれほどの烈しさとひび割れのあとの、九月の最初の雨がある。それは解放された大地の最初の涙のようで、数日間、この国がやさしさにまみれるかのようだ。しかし同じ頃、イナゴマメがアルジェリア全土に愛の匂いをふりまく。夕方、あるいは雨が上がったあと、すべての大地は、その腹を苦いアーモンドの匂いのする精液で濡らしたために、夏の間、それを太陽に曝して休息する。そしてまた新たに、この匂いが人と大地の婚礼のために捧げられ、私たちのなかに、この世で真に雄々しい唯一の愛を立ち昇らせるのだ。それこそが儚くも高潔な愛だ。

 注(2)

 挿画として、バブ・エル・ウエドで耳にした喧嘩話で、一語一語再録する。(話し手は、あのミュゼットのカガユウ〔作家オーギュスト・ロビネがミュゼットの筆名で書いた、アルジェリア人の主人公カカユウの冒険奇譚〕のように、いつでも話すわけではない。それは驚くには当たらない。カガユウの言葉はときに文学の言葉、つまり、再構成されたものなのだ。「やくざ」の連中がつねに隠語を話すとは限らない。彼らは隠語を使うが、それはまた別のことだ。アルジェっ子は特有の語彙と特別な文法を用いるが、それがフランス語に入れられることで、独特の味が生まれるのだ。)
 そのときココが前に出て、相手に言う。「ちょっと待て、待てよ」。相手が言う。「なんだよ」。するとココが彼に言う。「ぶんなぐってやろうか?」そして手をうしろにまわす。だがそれは見せかけだ。ココが、彼に言った。「手をうしろにやるんじゃない。さもないと、6-35〔ピストルの型〕をお見舞いするぞ。それとも二、三発喰らいたいか」。
 相手は手をまわさなかった。そしてココは一発お見舞いした――二発ではなく、一発。相手は地べたにころがった。「ウッ、ウッ」と唸った。そのとき大勢の人がやってきた。喧嘩が、はじまった。なかの一人がココに向かっていった。二、三人。俺が言った。「おい、俺の兄弟に指一本でも触れてみろ――誰だ、お前の兄弟ってのは? 兄弟じゃなきゃ、兄弟みたいなものだ。」そこで俺は一発パンチを喰らわせた。ココがそいつ殴り、俺が殴り、リュシアンが殴った。俺は一人を隅に連れて行って、頭でやった。「ボン、ボン」。そこへ警官がやってきた。俺たちは鎖につながれたというわけ。バル=エル=ウエド中を引きまわされて、赤っ恥をかいた。「ジェントルマンズ・バー」の前には仲間や娘っ子がいて、また大恥をかいた。そのあとで、リュシアンのところの親父が、俺たちに、「お前たちは正しい」って、言ってくれたんだ。
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by monsieurk | 2016-02-13 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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