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ムッシュKの日々の便り

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小野十三郎の「詩論」

 金時鐘が大阪の老舗の古本店「天牛」で小野十三郎の『詩論』(眞善美社、1947年)を買い、一読して霹靂のような衝撃をうけたことは、金時鐘が繰り返し語っている。
 小野十三郎(おの・とうさぶろう、本名は藤三郎)は、1903 年(明治36年)に大阪市南区に生まれ、天王寺中学校を卒業すると、1921年に上京して東洋大学に入学した。しかしわずか8ヵ月で中退し、親からの仕送りを受けながら詩作を続けた。小野の家は大阪の豊かな商家だった。
 詩作を続けるうちに知り合った、萩原恭次郎、壺井繁治、岡本潤たちがつくっていた詩誌「赤と黒」を見て刺激を受け、彼らの思想的影響もあってアナキズムの詩をつくるようになり、1926年には、岡本潤や秋山清たちと協力して雑誌「弾道」を創刊した。
 そのあと1933年には大阪に戻り、1939年、大阪の重工業地帯に取材した詩集『大阪』を発表し、これによって独自の詩風を確立したとされる。その一方、戦争が激しくなるなかで、吉本興業の文芸部に所属して漫才の台本を執筆した。同じ文芸部には秋田実などがおり、大衆の娯楽を積極的につくりだすことに力をそそいだが、同時に戦争中の思想的な締めつけを逃れるカモフラージュの意味もあった。
 戦後になって、『詩論』としてまとめられた詩をめぐる断章は、戦時中「文化組織」に連載されたもので、この雑誌は1940年に結成された「文化再出発の会」から刊行されていたものである。会の名称の通り、戦時下にあって日本の文化を再生させるという目標を掲げた体制翼賛的な組織であったが、そこに小野十三郎は、伝統的な和歌が詠う抒情を拒否する論を発表したのだった。小野がこのような批判を展開した背景には、斎藤茂吉たち歌人たちが、戦争に協力的な活動をしていたことに対する反撥があった。『詩論』には長短234の断章が収められているが、小野によれば、これは雑誌に発表された当時そのままのだという。本の「あとがき」には、「一本とするにあたってわざと元の無整理無秩序の姿のまゝで放り出すことにした。一體系をめがけることは私の目的とするところではない。短歌的抒情に対する詩人としての抵抗をぶちまけたまでだ。より科学的な批判の仕事をよぶ誘いの水である。」と記されている。
 いまでは稀覯本の類になっている『詩論』にはどんな批判が展開されているのか。自らの文化的基盤とは異なる日本の抒情詩で感性を育んだ金時鐘が衝撃を受け、その後の詩作の方向を定めたとする部分はどのようなものだろうか。
 例えば、断章15にはこうある。
 「現代詩に具わる新しい日本的性格とは、一口に言えば「批評」である。時代と自己との間隙を塞ぐ意欲的な批判精神を私は挙げたい。日本古来の詩歌の伝統に、そういう精神が全然無かったわけではないが、それは「自然」の智慧によって中和されていたために、かゝる隙間に、際立った矛盾や対立はみられなかった。そういうものをあまり露骨に表現することは詩歌の精神に反するとされたのである。「自然」の智慧が後退するとき、環境と自己との対峙は必然的に先鋭化する。詩に於ける自然の位置は次第に不安定となり、反対に現実社会の圧力は益々兄弟となって、智慧はその素朴なかたちで自然の中に静止していることが出来なくなる。「批評」は荒々しく詩の表面に躍り出て、その内容の非等質性と非親和性は古来の詩形式を拒否し、むしろ生理的な嫌悪感をもって、古い声調や韻律に立ち向かう。かゝる粗剛なる批評精神の発動を感じ得ない者には、抒情の変革ということは何の意味もないだろう。」
 では小野が唱える「批評精神」とはどのようなものか。断章16にはこうある。
 「・・・リアリズムは未だに「現実の再現」以上に考えられていない傾向があるが、言うまでもなくその本来の精神は現実の否定である。現実を否定することによってそれをより強く生かす思想である。かくの如きものが、今日の人民の詩に結びつくことは当然だと言わなければならない。そしてそれが他の散文芸術の場合に較べて、はるかに圧縮され、煮つめられたかたちで発現されることは詩の特徴である。批評が詩の純粋性の内部機構の最も枢要な部分を占めるとき、抒情の波長は自ずから更まる。これを正確にキャッチすることが詩作をするということだ。(後略)」
 そして断章199。「詩精神をめぐる操作としては、私の場合依然として「歌」の追放がすべてである。社会情勢の急激な転換によって、そのどさくさまぎれに容易に昔の地位を回復した「歌」などに未練はない。民衆の名によっていても、そういう歌はニセモノである。」
 こうして読んでくると、小野十三郎が強く否定するのは、一つは現実に目をこらさず、感傷に堕する精神であり、もう一つは和歌に象徴される、日本人の身に染みついたリズム感であることがわかる。後者については、フランスの抵抗詩人ルイ・アラゴンを例にして考察がなされる。それが断章217である。
 「ナチの支配下にあったフランスで最後まで抵抗運動の組織者として活動したルイ・アラゴンがそれによってフランス民衆の対敵意欲を燃え立たしめたと言われる詩の大部分が所謂ソネ(Sonnet)だとかバラード(Ballad)というような古い形式でもって書かれたことは私には興味がある。(中略)アラゴンがこういう形式にならって書いたことは一つの方便――おそらくフランスが当時おかれていた時代の混乱した雰囲気にもっともよくマッチする謂われがあっつたのだろう。しかし、彼がほんとうに詩人ならば、ソネやバラードというような形式に固有な韻律や音楽性に対してなんらかの抵抗があった筈だと思う。例えばかつてランボウが言ったように「新しい音楽を!」というような痛切な欲求が。彼の歌が勿論在来のバラードそのまゝの形式を踏襲しているものとは思わぬ。ただかつてシュールレアリストだった彼がそう容易に詩の歌謡などにたよれたと私は考えることが出来ないのである。詩に於ける音楽がそんなに甘いものであるかどうか。こゝに東西軌を一にして、リズムというものを「音楽」としてしか把握出来ない詩人の悲劇があるように思う。私たち生きる力としての詩の本来の在り方は、単に民衆を喜ばせ民衆に愛されるということに尽きるものではない。少なくともわが国の短歌や俳句の。三十一音字形式や十七音字形式に固有な韻律に対する私の嫌悪感から推してそう断定してよいのである。アラゴンはやはり二流の詩人だという気がする。私はかくありたいと願う民衆の中の民衆の詩人ではない。古い抒情に対する憎悪の表明が足りないのだ。」
 アラゴンの『断腸詩集(Le Crève-Cœur)』は、1939年から40年にかけて書かれた詩篇を集めたものである。この時期、フランスの支配層はナチス・ドイツの銃口をソビエトに向けさせようと腐心し、一方国内では左翼勢力とくに共産党を弾圧した。こうしたなかで国民は真の敵がどこかと戸惑い、祖国防衛の戦意もあがらぬままに戦争がはじまった。そして戦線が膠着する「奇妙な戦争」を経て、1940年6月パリが陥落。フランスは抵抗運動に入っていく。この間アラゴンはこれらの作品を誰のためでもなく、ただ自分のために書いたと語っているが、『断腸詩集』が地下出版されると、人びとに熱狂的に迎えられた。その理由の一つは、詩の多くがソネやバラードの形式でうたわれていたためである。アラゴンは自らの思いを広く共有してもらうために、あえて一般のフランス人に馴染みやすい音律を用いたのである。したがって、これをもってアラゴンを「二流詩人」と決めつけられるかどうか。むしろ糾弾されるべきは、日本の詩(和歌、俳句はもちろん)の多くが抒情詩で、アラゴンのような現実を直視した叙事詩が圧倒的に少ない事実ではないか。少なくとも、金時鐘が『詩論』から感得したのはこのことであった。その答えとして、生まれたのが『猪飼野詩集』であり、長編叙事詩「新潟」であった。また一方で、小野の批判に呼応する形で、塚本邦雄たちの前衛短歌の運動が推進されたといわれている。
 小野は1954年に大阪文学学校を創設し、詩、小説、児童文学などの講座を開いて多くの後進を育てた。1979年には『小野十三郎全詩集』が刊行されている。小野十三郎の仕事はもっと評価されていい。
by monsieurk | 2016-02-22 22:30 |
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