ムッシュKの日々の便り

monsieurk.exblog.jp ブログトップ

男と女、金子と森の場合(第2部)Ⅱ

 上海の冬は寒く、三千代は火の気のない部屋でベッドにもぐりこんでいることが多かった。金子の方は寒さのなかを上海の街を歩きまわった。そして寒さに堪えられなくなると、二人は目の前の内山書店に行ってストーブにあたらせてもらい、美喜子夫人が入れてくれる宇治茶を飲んで一息つくのだった。三千代は1934年(昭和9年)3月1日に発行した詩集『東方の詩』の「後記」で、次のように書いている。
 「・・・私が上海についたのは十一月の暮れでした。北四川路余慶坊、内山書店の対ひの、最初の上海旅行の時にゐたとおなじ家に落ちつきました。(中略)上海の生活もなかなからくではありませんでした。故郷の坊やに手紙をやりたくて、内山のをぢさんに郵便切手をもらひにいつたこともありました。
 朝起きても私の胃の腑はからつぽでした。私は抽出しの中や、靴下の底まで探しても銅貨一枚見当たりません。黒砂糖のやうな香ひのする支那煙草をいつもぷかぷかやってゐる、天草生れの下宿のおばあさんが、そんな時、見るに見かねて、――パン食べまつせえといつてくれたものです。」(『東方の詩』)
 内山書店は主人の人柄から千客万来で、日本から来た文学者だけでなく、めぼしい中国の文人もよく顔をみせた。金子はここで田漢、郁達夫、魯迅や許広平と知り合いになった。d0238372_15141226.jpg魯迅(写真)は蒋介石が反共クーデタを起こすと広州を脱出して、1927年(昭和2年)10月に上海へ亡命し、日本人租界の虹口(ほんきゅう)に住んでいた。魯迅は47歳、連れ合いの許広平は29歳だった。金子は魯迅とも親しく口を利く仲になった。『どくろ杯』では、「ときには、私がそばへよって話しかけても、ばつが悪そうに、相当ひどい虫歯の口でとってつけたように笑顔をみせながら、〈上海に長居しすぎているのではありませんか〉と、警告をふくんだようなことを洩らした」と書いている。
 金子と三千代の上海での日々はこうして過ぎていったが、三千代は別れてきた土方定一のことを忘れたわけではなかった。その後も二人の間には手紙のやり取りがあり、あるとき、三千代宛ての分厚い封書が届いているのを金子が見つけた。そこには分厚い手紙とともに、彼女が出したがっている詩集用のデザインが入っていた。仔馬三頭を土方が描いたもので、これを知った金子が意地になって印刷所を見つけ、それを表紙にした三千代の詩集『ムヰシュキン公爵と雀』を出版することにした。この経緯は、先のブログ「男と女――金子と森の場合」(ⅩⅦ、2016.01.26)で書いたとおりである。
 印刷屋を営んでいたのは島津四十起(しじき)で、佐藤春夫の小説「老書生」のモデルとして知られていた。上海で金鳳社という印刷所を経営するかたわら、中国全土をまわって、商店や会社、銀行などの在留邦人の名簿の記載料と広告をとって収入にしていた。金子は打ち合わせで訪ねていくうちに昵懇となり、島津の妻が留守中に店の若い書生と浮気をしたこと。書生は追い出したが妻は離別せず、その代わり一生こき使って償いをさせると打ち明けられた。金子が三千代の土方との顛末を話すと、満州にいる知り合いの芸者の写真をわざわざ取り寄せて、三千代と別れてこの女と結婚しろとしきりに勧めた。二人はコキュ同志だったが、女にたいする考えは正反対だった。島津は不倫した妻は徹底的に懲らしめると言うのに対して、金子は、女にも自由をあたえるべきだと言って譲らなかった。これはあながち金子の強がりではなかった。『どくろ杯』では、揺れる心のうちを次のように書いている。
 詩集をつくる話がまとまると、三千代は思いのほか喜んだ。「そのよろこびの底ににじんで出るもう一つの人影に私はさしてこだわる気持はなかった。過去を剪みとる意をこめて断髪にしてからまだ一年にならない襟もとのポイント形に剃りあげた短い草萌えいろに、私は、陶製のかいだんをおりてゆきながら、そって唇をつけた。菜館の前で彼女は別れ、ハスケル路の近くのイギリス人がひらいているダンス教習所へ正式な社交ダンスを習いにいった。よそに恋人をもってその方に心をあずけている女ほど、測り知れざる宝石の光輝と刃物の閃きでこころを刳るものはない」(『どくろ杯』)
 さらに晩年になってからだが、当時の三千代をこう回顧している。「彼女は、なにか、眩ゆいものをもっていた。視力の弱いものは、彼女を見ていると疲れると言った。おそらくその眩ゆさは、彼女の気の多さ、好奇心のつよさ、欲望のはげしさ、健康な若いからだから発する熱気かもしれなかった。(中略)恋愛関係になったときも彼女は、うち割ったところ、あいてが一人よりも、四、五人あった方がよかったのではなかったかとおもう。」(「良妻・悪妻・いま病妻」、文芸春秋、1974年10月号)
 金鳳社の島津から、武漢三鎮を守まわって、在留邦人名簿の会費を集め、あわせて新たな広告を取ってきてほしいという依頼をうけて、三千代と二人で漢口へむかったのは12月11日のことである。漢口までは5日5夜、揚子江を遡る70時間の船旅だった。三千代の回想では、「官船一等といふのですから、寝具の仕度ぐらゐはあるつもりでゆくと、うすい毛布が一枚で、暖房の設備もありません。隙間をもれてくる揚子江の河風の冷たさに震えながらの夜は、水深をはかる水夫の声と、夜つぴての隣室の麻雀牌をくづす音で、あけ方まで眠りつくことができませんでした。
 縹渺として果てしのない揚子江の水の上に、九江や大冶の湊があらわれる風景忘れるをことができません。」(『東方の詩』)
 二人は集金を済ませて対岸の武昌(ウーチャン)には有名な黄鶴楼があり見学に行った。武漢で12月17日に、人力車夫が日本の陸戦隊機銃車と衝突する事件があり、反日ムードが高まっていた。その上北上してきた蒋介石軍駐屯しており、中国人兵士たちは金子を見つけると、「東洋(トンヤン)、トンヤン」と罵声を浴びせ、唾をはきかけた。
 1929年(昭和4年)の正月は上海で迎えた。金子35歳、三千代は28歳だった。秋田義一は正月に一度日本に帰ったが、一カ月ほどでもどって来た。d0238372_093223.jpg
 三千代が待ち望んだ32ページの詩集『ムヰシュキン公爵と雀』は、1月21日に印刷が上がり、23日付けで発行された。現在、国立国会図書館に所蔵されている詩集の裏表紙には、「著者 上海北四川路余慶坊一二三号 森三千代、上海蘆澤印刷所」となっている。彼女はさっそくこの一冊を魯迅に贈呈した。1月31日の魯迅日記には、「達夫来る。『森三千代詩集』一冊を渡され、ちまき十個を贈られる。」とある。三千代は郁達夫を通じて、魯迅に詩集を贈呈したことがわかる。
 これと前後して、プロレタリア作家として名をあげた前田河広一郎が上海にやってきた。前田河は1921年に雑誌「内外」に発表した「三等船客」で注目され、その後「種撒く人」や「文芸戦線」に小説や評論を発表して注目されていた。今回は「改造」から連載小説を頼まれて、その取材ということであった。取材費なのか金を持っていて豪勢な旅だった。
 1月26日には、内山完造が前田河を歓迎する宴を催し、魯迅と許広平、郁達夫夫妻、林語堂などとともに、金子と三千代、秋田義一も出席した。これをきっかけ金子と三千代は前田河と親しくなり、フランス租界のバーやダンスホールを飲み歩いた。それでも前田河は小説の取材が気になるとみえて、内外綿の工場をみてまわり、女工たちの寮の浴槽に入れてもらったりした。秋田はそんな前田河を、「なんでも利用して、自分の役に立てればそれでいい粗雑極まる物質主義者」だったと嫌ったが、第三者の金子から見れば、「どっちも、日本人好みの感傷家であることが、可哀そうになるくらい似ている」(『どくろ杯』)のだった。(続)
[PR]
by monsieurk | 2016-03-17 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://monsieurk.exblog.jp/tb/22942757
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
line

フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31