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男と女、金子と森の場合(第2部)Ⅲ

 春になって、金子たち二人と秋田は、商売かたがた蘇州へ旅することにした。東洋のベニスとうたわれる蘇州では、しだれ柳が緑を増し、陽炎が揺らめいていた。蘇州城内の中国旅館に投宿して、秋田が名所である双塔寺、寒山寺、滄浪亭の絵を即席で仕上げて、日本領事館へ売り込みに行った。すると領事が寒山寺の絵を50ドルで買ってくれた。これで三人は1週間、早春の蘇州を楽しむことができた。だが売れたのはこれだけで、旅費がなくなり三人は上海に引き上げてきた。
 上海に戻ると、秋田が身体の変調をきたした。結核だった。すぐに唐辛子婆さんこと石丸りかの宿に引き取り、看病をしたがよくならなかった。そこに鼻のぽん助が訪ねて来た。例の春本の残りを38ドルで売り払い、その金で秋田を日本に返すことにした。金子と三千代は彼を乗せた上海丸が准山瑪頭を出て行くのを見守った。金子の『どくろ杯』には、このときの二人の会話が描かれている。
 「「君は、奴はが好きになったんじゃないか。どうも、そうらしいぜ。」
 彼女は、あわてて否定しようともしないできこえないふりして茫然と闇のなかをみつめていた。私は、なぜ、彼のいるところでそれを言わなかったと後悔した。善良な日本人の彼は、どんなに身のおきどころもなくこまったか、それがみてやりたかったのだ。その困惑ぶりは二挻の人力車の私の車ではなく彼の膝のうえに彼女を乗せた表情でよくわかっていた。
 じぶんの女という切実感がそのときほどうすれて、彼女にとっては、ただ大きく男というものの範疇のなかにじぶんもいるにすぎないとおもわれたことは、少なくとも近頃にない生な刺激であった。」(『どくろ杯』)
 一方で、森三千代の書いた「通り雨」では、ことの経緯は異なっている。
 「草刈(金子)の車がはじめ棍棒を上げて走り出し、勝子(三千代)の車があがろうとするとき、彼女は躓くように飛下りて、いま棍棒をあげかけた秋山(秋田)の車に走りよって跳びのった。草刈の車がすでに走り出しているので、秋山は、彼の膝に腰かけた勝子の心を判断するひまもなく、そのまま先へいそがねばならなかった。(中略)顔を正面にむけ、秋山は、勝子の断髪のうしろ髪がうるさく頬に触るのをじっとこらえたまま、一分も、表情も姿もくづすまいと闘っているのがわかった。」(「通り雨」)
 三千代によれば、彼女の行動は、物分かりがよいような格好をして、妻の行動をじっと眺めている金子への挑発だったように見える。さらに「通り雨」には、貧乏暮らしと、その反動の贅沢への憧れが率直に綴られている。
 「だが、なんという新鮮な欲望だろう。及びもつかない豪奢な、ショー・ウインドウの硝子の向うで移り変る。欲望は単なる欲望とはいえない。生きたいというのとおなじほど、女にとってははげしい欲望なのだ。誰があれを買ってゆくのだ。誰かが、それを着て、得々として、音楽会や、ダンス・パーティに出かける。なぜじぶんは二十線玉一枚に銅貨一枚をもってお腹をへらして、苦力たちといっしょに、ガーデン・ブリッジのてすりにもたれかかって、ぼんやり濁った川面を眺めているのだ。人生の華やかな中心はいったい、どこにあるのだろう。なんというぼろぼろな自分の人生だろう。勝子は、みんな、それが、草刈などと連立っているための貧乏くじとしかおもえなかった。」(「通り雨」)
 上海は彼女にとってまだ見ぬ西洋の窓であった。物質的不如意に加えて、目の前で繰り広げられる男女の自由な関係が、三千代の思いを強く刺激した。魯迅と許広平、郁達夫と王映霞の二組は自由恋愛を実践していた。
 3月になって、郁達夫を通して女性作家、黄白薇姉妹と会った。黄は本名を黄彰といい、1894年に湖南省で生まれた。長沙第一女子師範で学んだあと結婚したが、夫や姑の虐待にあって故郷を逃げ出し、上海から日本へ渡り、1923年に東京高等女子師範に入学した。歳は三千代より7つ上だが、同窓ということもあり二人は心を許す友となった。
 「上海生活の一ばん印象の深かつたある夕。女子高等師範時代の級友、黄白薇姉妹と、三人で、新雅亭の卓をかこんで、恋愛論をたたかわせたこと。この支那の女流文士の大胆さは私を顔負けさせました。」(『東方の詩』)
 黄白薇は東京高等師範在学中に、6歳年下で東京高等師範学校に留学中だった楊騒と出会い、激しい恋愛を経験していた。ただ楊は初恋の人が忘れられずに帰国し、黄薇も1926年には帰国して国民党政治部で日本語の翻訳や武昌中山大学の講師をつとめ、やがて上海に移って作家活動をはじめたのだった。魯迅や黄白薇との交流は、わが身をふり返る三千代にとって大きな励みとなった。時代の潮流に敏感な彼女は、革命の機運が渦巻く中国の現状と、そこで活動する中国の作家を見るにつけ、土方に導かれた左翼思想をもっと学びたい、文学で身を立てたいという思いがあらためて募った。
 「その頃、日本で、澎湃としてみなぎり起つてゐたプロレタリア文学の気運は私にもひゞきをつたへ、私はすぐにも日本へ帰つてそのなかに飛び込まなければならない衝動にかられたり、それが出来ない状態のためにいらいらしたり、動揺と不安と、楽観とが交々私を襲ひました。結局、私が日本を出発するに至つた動機のために、私は先へ先へと押し出されるより仕方がありませんでした。」(『東方の詩』)
 二人にとって上海滞在はそろそろ限界だった。三千代は、金子と別れて、土方と乾がいる日本に帰ろうかと思い、前田河に相談したことがあった。だがそれを知った金子が追いかけて来て引きとめられた。こうしたこともあって、金子は旅を先に進める決心をしたが、まずは旅費をどうしてつくるかであった。さしずめ得意の絵を描いて売るしか方法は見当たらなかった。
 「幼い頃、京都の日圭という画師の弟子の百圭という貧乏画架に四条派のつけたての手ほどきをしてもらい、東京に出てきてからは、牛込の見付内の、逓信博物館のあるへんにいた、版画家の小林清親に画をみてもらい、その後は自我流で上野の東京美術学校の日本画に入学し、いくばくもなく退学させられた。(中略)しかし、清親とは風の変った風俗画を画くので、すこしは認めてくれるものもあり、広重風な上海名所百景を画くことにおもしろ味を見出して、五品、十品と半紙大の画仙紙に書きためていた。」(『どくろ杯』)
 虹口の文路にある日本人倶楽部の二階で開いた展覧会で、狼毫の自由自在な毛筆で描かれた絵はよく売れた。会期は三日間で、三千代がひとりで会場係と売り子をつとめた。買ってくれた多くは在留邦人だったが、魯迅も二枚買ってくれた。『魯迅日記』には、1929年3月31日の項に、「(前略)午後柔石・真吾・三弟及広平と金子光晴浮世絵展覧会を観にゆく。二枚を選んで賄う。二十元」とある。魯迅が買った二枚の絵は、《大世界唄女之図》と《鉄橋》で、『北京魯迅博物館蔵画選』に収録されている。
 金子たちの送別の宴が開かれたのは、5月初めのことである。このときも内山夫妻が催してくれたもので、謝六逸が夫婦のパリ行きを祝ってと題して漢詩をつくってくれた。そして翌日、二人は一緒にパリまで行くという佐藤英磨とともに、日本郵船の三等船室の客となった。荷物はそれぞれの身のまわりの品と売れ残った絵だけだった。行き先はパリではなく香港だった。絵を売って得た金は、たまっていた宿代や食事代を払うと、香港までの船賃しか残らなかったのである。(続)
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by monsieurk | 2016-03-20 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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