ムッシュKの日々の便り

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男と女、金子と森の場合(第2部)Ⅶ

 7月15日の午後、早撮りの顔写真をもって民籍局に行き、在留手帳の交付を交付してもらい、パポートを返してもらった。その帰りに新市のウエルトフレンデにまわりって目抜き通りを見物した。広場にはジャワの二代目の総督ヤン・ピーターソン・クーンの銅像があった。三千代はオランダの百貨店ゾーンで口紅を買い、さらに草色のパジャマを注文した。そして軒を連ねる日本人の店の一つで影絵人形を染め出したサロン〔インドネシアの女性が着る腰巻様の服〕を買った。
 チューリオン川の岸辺では、大勢の現地の女性たちが洗濯をしている光景に出会った。ディレントイム公園では、オランダ人女性がフットボールに興じたり、若い男女が自転車に乗ったりしていた。その後、馬車を雇ってジャガタラ街道を行き、途中でピーター・エルヴェフェルトの梟首を見た。d0238372_8425177.jpg
「そこは、旧バタビヤ、ウエルトフレンデ間の停車場になっていた。馬車を乗りすてて、五六間はいると、目的のエルベフェルトの首がある。首は長い石塀の上にのっかり、下から突刺した槍が二寸ばかり尖先を出している。首も槍も赤く錆びついたような色をしていた。顔なりにそっくりコンクリでかためて化石させたもののようである。石塀の向うは、広い芭蕉畑で、破れた芭蕉の葉が、夕暮の中でカタカタ鳴るのが、首が笑っているようで無気味だった。」(「爪哇の宿」)と森三千代は書いている。梟首の印象は二人にとってよほど強烈だったとみえ、金子光晴も「エルヴェルフェルトの首」という散文詩(初出は「コスモス」1935年11月号)に詠っている。
 「バタビアの第一の名物は、総督クーンの銅像でもない。凱旋門でもない。それはピーター・エルヴェルフェルトの首だ。
 全くそれは一寸よそに類のないみせものである。
 ピーター・エルヴェルフェルトといふ男は、生粋な謀反人であつた。彼は混血児で、奸侫な男だつた。十八世紀の頃和蘭(オランダ)政府を顚覆し、和蘭人をみなごろしにする計画をたて、遂行のまぎはになつて発覚し、蘭人側のあらん限りの呪ひと、憎しみのうちに処刑され、その首が梟首されたまゝ今日までさらいつゞけられてゐるのである。(中略)
 謀反人エルヴェルフェルトの首は、壁のうへで、いまもはつきりと謀反しつゞけてゐる。たとへ彼の××が、いかなる正義も味方しないとしても、××である故をもつて、まつさきに正しいのではないか。ススーナンにも、サルタンにも和蘭にも、コムミュニズムにも、次々にきたるすべてのタブーにむかつて叛乱しつゞける無所有の精神のうつくしさが、そのとき私の心をかすめ、私の血を花のやうにさわがせていつた。私はエルヴェルフェルトの不敵な鼻嵐をきいたのだ。
 遠雷がなりつゞけてゐた。私の辻馬車(サード)は、じゃがたらの荒れすさんだ路をかけぬけようとあせつてゐた。うちつゞく椰子林のなかの光は鈍く、反射し、でりかへし、あたかも、天地のすみずみに、いたるところにしかけた火薬がふすぼりだして、いまにも爆破しさうな瞬間のやうにおもはれた。そして遠方にならんだ椰子の列は、土嚢をつんだやうな灰空の下で、一せいに悲しい点字の音のつゞくやうに機関銃をうちはじめた。
 私は目をつぶつて、胸にゑがいた。剣に貫かれた首の紋章。ピーター・エルヴェルフェルト。」(詩集『老薔薇園』)
 ××には「革命」の文字が入るところで、発禁処分を恐れて伏字にしたのである。1926年6月には治安維持法の改正が行われた。出版物に対する取り締まりが強化され、言論に対する弾圧は容赦がない時代になっていた。森三千代は、「金子光晴の周辺 12」で、「金子とは旅行中も、そういうこと〔社会主義思想〕で話し合ったことは一度もないんです。私一人で勉強したり、一生懸命に考え込んだり・・・ほんとは金子とも話したかったんですけど、どちらからも、そういう話はしようともしなかったし、話したりすると、喧嘩になりそうだったんです。しないほうが、おだやかな旅行が出来ました。
 あとになってからは、ああ、やっぱり金子も、私と同じようなことを考えて、旅行してたんだなあと思ったんです。金子が書いたものを読んで。」と語っている。金子も口にこそ出さなかったが、欧米の植民地だった中国や東南アジアの悲惨な姿を心に刻んでいたのである。
 7月18日、「爪哇日報」に、「詩人画家金子光晴氏並に夫人(女流詩人森三千代)は渡仏の途新嘉坡よりジャワ見物に来島した。当分バタビアに滞在する」という記事が掲載された。
 7月19日、金子と三千代はそれぞれ風物詩をつくり、「爪哇日報」の編集部に渡した。隣の植字室からは係の小父さんの鼻にかかった歌が聞こえてきて、それを聞きながら買ってきたオランダのレースを洋服の襟につけた。十人ほどいる新聞社の人たちとも親しくなり、その人たちに連れられて中華街の外れにある温泉へ行って故国の気分を味わった。
 7月20日、デング熱の影響か、日中は外出する気になれず、陽が落ちてから旧港までカノンを見に行った。草原のなかに置き忘れたように古い大砲の砲身が投げ出されてあった。砲底の蓋が人間の握り拳の形になっていて、人差し指と中指の間から親指の先が突き出て、男性のシンボルを表していた。子を授かりたい女たちが、糸で綴った南国の花を砲身にかけるのだが、それが陽に焦がされて茶色の変色していた。男砲と女砲の一対があり、女砲は運ばれて行く途中に海に沈んで、いまは夜になると男砲を慕って泣く声が聞こえると伝えられていた。
 7月21日、先に原稿を渡した、金子の「月が出る」と三千代の「スコール」、「南方の海」が新聞に掲載された。
 7月22日には、徒歩で世界をまわっているという竹下康園が新聞社を訪ねて来た。三千代が応接し、署名簿を出されたのでボードレールの詩の一節を書いた。そして竹下の徒歩旅行の件を新聞記事に書いた。
 7月23日、竹下は斎藤正雄から若干の寄付を得てスラバヤへ向かって旅立っていった。この夜は、空き地にテントを張った現地人のサーカスを見に行った。三千代はサロンを穿きサンダルをつっかけた姿で桟敷におさまったが、周りの女たちがみな彼女を見ながら笑っている。どこか変なところがあるのだろうと自信がなくなった。
 三千代は、「この日は、郷愁殊に深し。故郷のことが気にかかる。家に手紙を書く」と日記に記している。すると翌朝入れ違いに長崎からの手紙が届いた。「朝、長崎の家から手紙来る。昨夜手紙を書いたのは、蟲が知らせたといふものか。
 坊やが丈夫ださうだ。なによりも、それが一番うれしい。坊やの描いた絵が三枚封入してある。
バタビヤには、ジャバ産の子馬のサドといふうしろ向きに腰をかける馬車が、鈴を鳴らして到るところに走つてゐる。坊やを一度それに乗せてやりたいと思ふ。」(「バタビヤ日記」)(続)
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by monsieurk | 2016-04-01 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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