フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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男と女、金子と森の場合(第2部)Ⅹ

 スラバヤからバタビアへの帰途は、ジャワ島南部を横断する汽車の旅で、ジョグジャ、バンドン、ボゴールを通ってバタビアに戻った。そして10月20日、バタビアからオーストラリアのKMP汽船に乗船した。ただ船賃を節約するため、来たときとは違って、一人15ギルダのデッキ・パッセンジャーの客となった。これは船室もベッドもなく、4日間をデッキで過ごすのである。日本人がデッキの客となるのはまれで、まわりはインド人やマレイ人の兵士、タミール人の出稼ぎ労働者たちだった。
 鞄類とともに、ズックの折り畳みの寝具を一つ持ってデッキに上がり、それを三千代の寝床にして、金子はそばに新聞紙を敷いて寝た。食事のサービスもなく、乗船前に買い込んだバナナの大きな房2つと、船内で売りに来るコーヒーを飲んで飢えをしのいだ。困ったのはスコールで、デッキはたちまち水浸しになり、流されないようにデント綱にしがみついた。さらに難儀したのは便所だった。デッキには便所がなく、三千代が用を足すときは、船尾の手摺に近い床に紙を広げて済ませた。しゃがんでいる彼女の身体をかくすように、金子は両手を広げて立っていた。
 4日目にシンガポールに着き、以前も世話になった「星州日報」の長尾正平の世話になり、ヨーロッパ航路の郵船を待つことにした。その間、デッキの旅も貴重な体験だろうと話題にすると、笑う者もいたが、なかには、「日本人の体面がありますよ。一等国の国民がヒンズーといっしょにデッキで旅をするなんて非常識よりも、国辱です」(『どくろ杯』)と決めつける者もあった。
 長尾は植民地の実態に触れて、白人のアジア支配やその搾取のうまみにあこがれて、あわよくば白人に代わって自ら植民者になろうとたくらむ日本の資本家たちやその手先になっている者に反感を抱いていた。彼の蔵書には、マックス・スティルナーの『唯一者とその所有』やマルクスの本などもあり、金子はそれらを借りて読んだ。『こがね蟲』に見られるように、金子はもともと感覚的な耽美主義者で、思想は苦手だった。それに三千代の恋人だった土方の存在もあって左翼に対して懐疑的だった。その彼がこの旅で植民地の実態にふれ、さらに長尾の影響もあって次第に白人の植民地支配に対して怒りと批判を持つようになっていた。
 手許には東京を出てから初めてまとまった金があり、長尾もパリまでの旅費の捻出に骨を折ってくれたが、有り金を計算すると、三等に乗るとしても、マルセイユまでの二人分の旅費には足りなかった。三千代は事の次第をこう回想している。
 「ジャワからシンガポールに上陸したとき、持ち金を勘定したんですね。そのとき相談を受けました。二人でパリまで行くには足りないけれど、一人でとりあえず行くか、それともここから二人で日本へ帰ってしまおうか、そういう相談を受けました。日本を発ってはじめて相談というものをしたんです。珍しいことだったと思います。そのときまでは金子がどんどん自分で引っぱってきましたけれどもね。その相談の結果、よかったら私先に一人で行くと言ったんです。でもそうは言ったものの、いざ船に乗ったときは、しまったと思いました、心細くて。」(「金子光晴の周辺 4」)
 一方、金子の回想では――、
 「三等でも二人の旅費にはまだ足りなかった。そこでまず、不安ではあるが、一足先に、彼女をパリにやり、そのあとから、マレイ、スマトラ、事に酔ったら、ビルマ、インドと立寄って私があとかを追う。そのあいだを二ケ月と決めて、彼女に切符を買ったあとの有金をもたせ、パリで待つようにくれぐれも手筈を話した。もたせた残金で、私なら、三ケ月でも四ケ月でもくらしてみせるが、ヨーロッパははじめての彼女にとっては、すこし無理かもしれないと思った。」(『どくろ杯』)
 スラバヤの展覧会で絵を売って稼いだ金は50ポンド゙で、そのうちの30ポンドでマルセイユまでの特別三等の切符一枚を買った。特別三等には藁床のベッドがあり、一品料理の洋食もついた。残りの20ポンド゙は、パリで生活する当座の金として三千代に渡した。金子自身はマレイの奥地でゴム園を経営している人たちに絵を売って船賃を稼ぎだす算段だった。シンガポールで次の郵船を待つ間は一週間ほどだった。この間に斎藤という外交官のはからいで、パスポートを二つに分けて、各自がそれぞれのものを持つことにした。
 10月末、三千代は郵船の加茂丸に乗った。見送りは金子一人だった。
 「彼女をつかんでいる手を離して、なにか運命の手にゆだねるということは、永遠の別離を意味することである。
 船底のまるい窓から覗いている彼女が船がはなれてゆくにつれて小さくなってゆくのをながめていると、ついぞ出たことのない涙が、悲しみというような感情とは別に流れつたった。「馬鹿野郎の鼻曲り」と彼女が叫びかけてきた。「なにをこん畜生。二度と会わねえぞ」
 罵詈雑言のやり取りが、互いの声がきこえなくなるまでつづいていた。彼女の出発について移った桜旅館にかえると、空中にいるような身がるさと湿地にねているような悪寒とを同時に味わった。」(『どくろ杯』)
 この離別のシーンを、森三千代の方は次のように書いている。
 「十三子(三千代)の乗り込んだ船を波止場の岩壁に立って、小谷(金子)が見送った。丁度、小谷が立っている水平の位置に、三等船客の丸窓があり、そこから顔をのぞかせた十三子と彼とが向いあった。小谷は、無理に笑顔をつくって、ときどき思い出したように手を振ったが、笑顔はすぐにいびつになった。ゴム園を歩いて船賃をつくり出すことは、彼としても確信があるわけではなかった。ここからすぐ二人で日本へもどることもできると、小谷は、その時までは心のなかでひそかに両端を持していたのだが、十三子が船にのってしまっては、賽はもう振られてしまったのだ。十三子は巴里について一ケ月の滞在費も持っていないのだ。そして、補給のあてはなにもないのだ。小谷はそのとき、自分の力と誠実の限界をはかり知って、己を放棄することで、ある解放感をおぼえながらも、かなしさ、さびしさは、果てしなかった。その小谷の気持が、十三子にも、ひしひしとわかった。あとを追いかけてくるという小谷の計画に十三子は、半分の期待しか持てなかった。小谷が来られなかった場合のなりゆきはやみくもで、考えてみる気にもなれなかった。考えれば、足もとの奈落をのぞきこんだように、全身が総毛立った。そしてこのようなはめに立ちいたったじぶん達の運命に、むしょうに腹が立った。その怒りをなにかにぶつけなければ、心がおさまらなかった。出帆の銅鑼が鳴り、岩壁に下してあったタラップが上げられた。船がうごきはじめ、十三子から岩壁が退っていった。
 「めっかちの、つんぼの、鼻まがり。おまえなんか、どっか消えて、なくなっちまえ」排水のさわがしい音に消されそうになるので、声を限りに、岩壁にしょんぼり立っている小谷にむかって叫んだ。小谷がマッチの軸ぐらいに小さくなって、やがて見わけられなくなるまで、ながめていた彼女は、女ひとりで相客のいない船室の藁蒲団のベッドの上に、突き上げてくる嗚咽といっしょに顔を伏せた。(「去年の雪」)
 1928年(昭和3年)の12月、長崎を出て上海に渡って以来、二人は上海、香港、シンガポール、ジャワ、そしてまたシンガポールと続けて来た。金銭的な苦境と三千代を恋人から引き離すために出かけてきた二人旅だったが、一年後の1929年(昭和4年)10月末、二人はついに別れ別れとなった。果たしてこのあと、約束通りに三千代の後を追ってパリに行きつけるかどうか、一人でパリに向けて出発した三千代がどうなるのか、金子にも当の三千代にも何の目算もなかった。(第二部終)
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by monsieurk | 2016-04-10 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)