フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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男と女――第三部(1)

 「男と女――金子と森の場合」(第三部)の連載を再開する。

  シンガポールの港で、三千代が乗船した船を見送ったあと、金子光晴は桜ホテルに戻ってきた。なにはさてパリへ行く旅費を稼ぐ必要があった。そのためにはまだ足を踏み込んでいないマレー半島へ渡り、点々とある日本人が経営するゴム農園を訪ねて、これまでのように絵を売って歩くことだった。三千代が出発してから五日目に、ようやくマレー半島へ出かける算段がついた。
 十一月のはじめ、白服に中折れ帽子をかぶり、スーツケース一つをもって、午前十一時にシンガポールをバスで出発した。すでに雨季がはじまっていた。バスがジョホール海峡をまたぐ橋をこえると検問所があった。そこはもうジョホール王国の州都ジョホール・バルの州都だった。d0238372_16585732.jpg
 検問をすませ、近くの市場で現地の人たちにまじって羊の焼肉であるサッテを食べ、別のバスに乗りかえて、ジャラン・タンジョン・ラボー(現在の国道五号線)を北上した。いまにも分解しそうなバスは、芭蕉の林、植林されたゴムの樹々の間や密林をぬけて、午後の四時ごろにバドパハに着いた。
 バトパハとは、Batu(石)とPahat(ノミ)が合わさった地名で、海峡を往来する船に供給する飲み水を貯めるために、石をノミで穿ったことに由来するという。当時すでに人口四万人を数え、ゴム農園の経営を中心として、マレーでは日本人が数多く進出したところとして知られていた。ここは十九世紀末まではルマ・バツと呼ばれ、わずかな戸数の寂れた河辺の村にすぎなかったが、日本からゴム会社三五公司の資本が投下されて事務所が置かれ、さらにセンブロン川の流域や、バナン山麓が開拓されるにしたがって、その根拠地として日本人の勢力下に急速に発展しのである。
 金子が訪れた一九二〇年末、ゴム産業は不況に陥り、代わって石原産業の鉄鉱石が主力となっていた。当時のイギリス領マレーでは、外国人の土地所有は認められなかったが、経済振興のために外国人に対しても門戸を開放しており、昭和の初めから多くの日本人が一旗揚げるために、この地に渡ってきていた。考えて見れば金子自身もそうした一人で、この地の日本人社会で絵を売って、パリまでの一人分の旅費を稼ごうと考えたのである。金子はこの日、バトパハの河口にある渡船場の前にある日本人倶楽部の三階に泊めてもらい、しばらくここに滞在することにした。d0238372_171388.jpg
 この倶楽部は山からやって来るゴム園や鉱山の従業員が宿泊したり、ひと時の遊興を楽しむための施設として設けられたもので、玉突きをしたり、早便でつく日本の新聞を読みに来る人もあった。三階の部屋には中国式の寝台がいくつも置かれていて、夜になると中国人のボーイが、ランプと洗濯ずみの浴衣をもってきてくれた。
 「バトパハに着いて第一の夜、私は、はるばる馬来の奥にひとりで入りこんできた空隙さのなかで、秒針(セコンド)をきゝ金気(かなけ)くさい鑢目をまさぐった。それをただ、私は旅の憂愁にのみずけてしまえないで、馬来のこゝの貧しさに触れた、切な悲しみと思做(おもいな)した。
 豆洋燈が一個点っている。支那ベットに張りわたした白蚊帳のうえを、守宮(チンチャ)が、チッ、チッ、と、かぼそい声で舌をならしてわたる。その影が、シーツのうえに大きく落ちて、うすぼんやりぼやけたまゝで凝っとうごかない。(中略)
 わずか、一日行程軌道から入りこんだだけだのに・・・。過ぎ去って偶しまったような、離れて私だけきてしまったような、区切りのついた、そして、もう誰からも届かなくなった私なのである。届かないものを信用できなくなった私を淋しまずにはいられないではないか。」(『マレー蘭印紀行』、「バトパハ」)
 三千代を一人旅立たせたことへの心残り、淋しさ。反面そこにはほっとした気持もまじっていた。これが三千代と分かれた金子の本心だった。この夜は手紙を書こうとした。そうすれば手紙だけは数日遅れで彼女を追いかけていき、また本国に残してきた幼い息子にも届くはずであった。だが日本語の複雑な象形文字を綴る気力と頭の働きが失せた思いだった。
 翌朝、三階の部屋で鎧窓を押すと、それはまるで蝶がうしろで羽をあわせる形に開き、滔滔と流れるバトパハ河が目の前にあった。三方の窓から河風が部屋を吹き抜け、火焔樹・カユ・アピアピが見えた。
 「パトバハの街には、まず密林から放たれたこころの明るさがあった。井桁にぬけた街すじの、袋小路も由来もないこの新開の街は、赤甍と、漆喰の軒廊(カキ・ルマ)のある家々でつゞいている。森や海からの風は、自由自在にこの街を吹き抜けてゆき、ひりつく緑や、粗暴な精力が街をとりかこんで、うち負かされることなく森々と繁っている。」(同)
 これが、金子が生涯にわたって懐かしむことになるパトバハの第一印象だった。朝食は倶楽部の真向かいにある岩泉茶室で、ピーサン(芭蕉)二本と、ざらめ砂糖とバタをぬったロッテ(麺麭)一片、コーヒー一杯をとることにした。そしてこれが滞在中の習慣になった。熱暑がまだ襲ってこない朝は、一日で一番爽やかで、落着きのある時間だった。だが川霧が流れるなかで、すでに一日の胎動ははじまっていた。金子は食事のあと、渡船場にたむろしている人力車で、街中や郊外をまわって画材になる風景を探し、スケッチをしてまわった。絵がたまれば、倶楽部の二階で展覧する許可を、シンガポールからバトパハ日本人会理事の松村磯治郎(交南洋行社長でゴム園の経営者)に得ていたので、急がなければならなかった。
 夜は空地の草むらで、夜空の下の活動映画の興行があった。現地の人たちがそこここにかたまって観ていた。古ぼけた喜劇や西部劇だった。籐椅子に坐っていつのまにかうとうとしていると、にわかに大騒ぎが起こった。目を覚ますと、スクリーンでは主役のカウボーイが令嬢を引き寄せてキスをしようとしている。現地の人たちは悲鳴に似た声をあげて身をよじっている。話の筋はわからないが、このキスのシーンを待って毎晩やってものが多いということだった。
 そのうちに、夜になると倶楽部の書記役のSと相棒のスマトラ木材のKが誘いに来るようになった。バドパハには小学校がなく、Sが近々倶楽部の三階の廊下を教室にして、生徒を受け入れることになっているという。そうすればシンガポールに出している子どもたちも親の手元で学べるようになるのだった。
 金子はSとKと一緒に目抜き通りが一本だけのバドパハの夜の街を歩いた。両側には不意のスコールにあったとき、それを避ける軒廊(カキ・ルマ)があり、その奥に華僑がやる娼家があって、田舎から出て来た裸足の現地の若者たちがたむろしていた。紅蝋燭を点し、抹香に煙るなかをのぞくと、断髪やお下げ髪の女たちが、白粉玉をのばして化粧したり、寝そべって麺をすすっていたりした。彼女たちは三人が日本人と分かると、つと顔をそらした。それが数少ない日本人が支配しているバトパパでの、華僑たちのせめてもの反抗のあらわれだった。
 裏通りには、うどん、チャンポンなどと書いた日本の飲食店があった。店主は四十五六になる日本人女性で九州天草の訛りで話した。店には赤ん坊を抱えた現地の主婦や娘たちが客をまっていた。店主の女はSに、シンガポールの知人にあずけている一人娘をぜひ入学させてほしいと、しつこく頼んでいた。その夜は酔いつぶれたSを二階に引きずり上げてベッドに寝かし、しばらくベランダで夜の街を眺めていた。自分にあてがわれたベッドに寝よとすると、母親ほども年の違う店主の女がSを愛撫しながら、そこでもまた娘のことを頼んでいた。金子の脳裏に、いまはペルシャ湾あたりを航行しているはずの三千代の姿が思わず浮かんだ。彼女との約束をはたすために、骨身を削ることの虚しさをふと感じた。
 翌朝、階段の横の壁の高いところに、色褪せた写真が飾られているのに目がとまった。肩が看護婦の服のようにひだで脹らんだ旧式の洋装をして、頬のふくよかな若い女性が二人写っていた。一人はこの店の主人だった。もう一人は彼女の姉か同僚か。しばらくするとその写真の上を白い色のやもりが横切った。(続)
 
 
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by monsieurk | 2016-05-16 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)