フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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男と女――第三部(4)

 金子は自動車を雇って、スレンバンからクワラルンプール(金子はコーランプルと表記)へ向かった。クアラルンプールは当時もマレー連邦州の首府で、マレー半島のなかでもっとも殷賑をきわめる街だった。
 街に入ると、大王椰子の並木の間から、イスラム教寺院の独特の屋根がのぞき、そこから鐘の音が聞こえてきた。望楼ではメッカの方角に祈りをささげるイスラム教徒の姿が見えた。
 日本人がやっているホテルを探して宿泊することにした。女主人は、最近日本人の旅行者がめっきり少なくなったと言い、身の上話をはじめた。四十年ほど前に国を出て、あちこちと渡り歩いた末にある西洋人と結婚したが、その夫とも十年ほど前に死別し、わずかな遺産でホテルを買い取ったということだった。ホテルとはいえ、現地の女を客を連れ込むのに借りている部屋が多かった。
 彼女のような身の上の日本女性は、少し前までは東南アジアに各地にいたが、このころはマレー半島でもクアラルンプールに少しいるだけで、それも一、二年のうちに本国へ引き上げるように政庁から命令されているという。サルタンの後ろにいるイギリス政府が、非人道的な娼婦の存在を表向き排除しようという意向なのである。
 そもそも彼女たちがなぜ東南アジアにいるのか。金子は『マレー蘭印紀行』を執筆するときに調べたか、あるいは当人たちに聞いたのか、次のように書いている。
 「そもそも表南洋の各地に日本人がわたりはじめたのは、明治二十四五年から、日露戦争へかけての頃であった。港から脱走した下級船員、本国を食いつめたあぶれ者、前科何犯、そういった連中が、真面目な仕事には手が出せず、他に道がないのではじめたのが、娘売買であった。娘一人の価格は、先土地相場で二三百円見当、なにか一つ商売をしたいから資金を貸してくれと云っても相手になるものはなかったが、どこそこの土地は女二三人置けば必ず繁昌するというような話だと、それならよろこんで融通してくれるものがあったそうだ。
 女衒達は、船員と結託して、女一人タラップ入、食料つきで出発港、例えば門司から香港まで、普通運賃十五円のところを、二十五円乃至三十五円位わたして、船員のほまち〔傍点〕として、密航を依頼する。天草、島原の女たちは附近に大工場がなく、仕事に困っていたので、親たちが進んで、海外出稼ぎに出した。本人達も、外国に出て稼げば、美しい衣物も着られる。金の指輪も嵌められる。そのうえ、一家に送金して、親兄弟はいうに及ばず、親戚の誰彼までが、彼女一人のお蔭をこうむって、遊んで暮らす。代りに頭があがらず、むしろ近隣のほめものになるので彼女たちは、争って国を出る傾向さえあった。その他に、悪辣な誘拐者の手で全国から、泣きの涙で売られてゆく女達は、一先ず、香港のワンチャン界隈に頑張っている女衒の大親分の許に蓄積され、そいつらの手で、満州向き、支那奥地向き、南洋植民地向きと大別、三見通りに、彼女らの生涯の運命にふりわけられる。しかし、いかほど気強い女でも、いよいよ故郷が遠くなり、いざ眼色のちがう人間たちのあいだに餌食として投出されると、昼夜、泣き通す。そのうち慣れて、つらさをつらさとおぼえぬようになっても、自分の身のなりゆくはてが、よりどころなく耐えられなくなる。そうした女達の弱みを知りぬいて、嬪夫たちが、巧みにその心にとり入る。女たちのうさの聴手、なぐさめ役になりながら、女たちがからだでかせぎ貯めた金を、そくりそくりとばくち〔傍点〕のもとにかりてゆく。結局女たちは、彼らのために稼ぐことになる。嬪夫らの素性は大方、女衒あがりののらくら者で、徹頭徹尾、女の汗や膏で生きているのだ。」(『マレー蘭印紀行』)(続)
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by monsieurk | 2016-05-25 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)