ムッシュKの日々の便り

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男と女――第三部(6)

 ホテルに宿泊しているほとんどは外国人だったが、白布で仕切っただけの隣室には、シャム(タイ)との国境のケダ州で農業をやっているという日本人の夫婦が泊まっていた。女は娘子軍の果てで、亭主の方はひもだった男だが、いまはいたわりあいつつ、異国の山間で余生を暮らす老夫婦だった。
 クアラルンプールにしばらく滞在した金子は、イポ、タイピンと北上して、バッタワースからペナン島にフェリーで渡った。ペナンはマレー半島第二の大きな街で、人口も凡そ二十万を数え、その内十八万人ほどが、ジョージタウンと呼ばれるイギリスの街を模した市街に住んでいた。この港は良港で、日本郵船などヨーロッパ行の定期船が寄港する場所だった。
 ヨーロッパへ行くなら、ここからインド洋を目指すのだが、金子にはまだその金はなく、かねてからスマトラに興味もあったので、スマトラ島へ渡ることにした。ペナンでは名所とされる極楽寺や蛇寺を訪ね、葉巻工場を見学したあと、十一月下旬、ペナンを午後四時に出航する週一便のイギリスの汽船Kuala号の二等船客となり、スマトラへ向かった。船は小型船で、翌日の午前七時に島の北海岸にある港ベラワン・デリに着いた。
 スマトラ島は、はじめイギリスが島の西北部メダンとデリー地方を領有していたが、十八世紀初めに、オランダが占有していたマレー半島の占領地と交換して、オランダ領になっていた。金子はベラワン・デリからタクシーで、スマトラ第一の商業都市メダンに入った。d0238372_510871.jpg
 メダン市は港の税関から続く軽便鉄道が通っていて、その線路を挟んで新メダンと旧メダンとに分かれていた。官庁、銀行、会社、大きな商店などはみな旧メダンの目抜き通りに軒を連ね、新メダンは最近開けたところで、中国人の小売店や、小料理屋、活動写真の小屋などがあった。金子が日本人の経営する宿に行ってほしいというと、タクシーの運転手は迷わずに新メダンの一つのホテルに車をつけた。そこにはヨシノホテルと看板がかけられていた。新メダンには、アズマホテル、ヤチヨホテル、スマトラホテルなど、日本人が営む同じようなホテルが四十軒以上あるということだった。
 スマトラ島に日本人が進出したのは第一次世界大戦の最中で、まず雑貨商がやってきて、その後も移住者は増え続けた。一九二〇年代のこの時点で、スマトラ島全体ではおよそ千六百人ほどの日本人がおり、そのうち三百人がメダンに在留していた。ここには三井、三菱など大手の会社が進出し、日本人会が本願寺を建立し、それに附属した小学校もあった。
 島に着いた翌日、旧メダン郊外のカンポン・キリンの一画にある、日本人の老婆の家の二階の広い一部屋を借りることにした。この老婆もかつては娘子軍の一人だった。
 窓から見ると、往来を挟んだ向かい側に、商品を陳列している柴田という人の家があり、その一軒隣りが奥地に山林を所有する池田某、さらに通りを少し行くと家具の設計を生業とする荒谷という人の家があった。
 世界不況に波はここにも押し寄せて来ていたが、深刻さはゴムに頼るスレンバンほどではなかった。金子はこの宿を根城にして四、五日滞在した。在留邦人にできるだけ多く絵を売るのが目的だった。そのために在留民との出会いに日を費やし、現地の人たちと積極的に交わることはしなかったが、彼が見聞きした現実から得た結論を次のようなものであった。
 「スマトラ全島は、近い将来に於て、外国資本の手によって解体されつくし、住民の生活様式にも、一大変転がこなければならないといふことは、疑う余地はない。
 爪哇〔ジャワ〕はもはや、骨も、皮も残つてゐない。馬来〔マレイ〕半島は、毒の注射をうけて、全身が痺れてしまつてゐる。そして、こゝ、スマトラはいま、俎のうへにのせられたばかりである。」
 「・・・スマトラの自然は、いつも樹木の下蔭になって、ひるでもまるで、夜のようだ。
 和蘭〔オランダ〕風な低屋根がならんでいるメダン全市も猶、森林の延長であるにほかならない。
 これらの植物の動静は、北方の森林にみるように、静的、哲学的、乃至は浪漫的な世界ではない。それは、むしろ、おもいきった動物性の表現である。
 のこぎり鮫のながい歯をそらにおし立てたような椰子の葉が、押しあい、へしあいしている。幹はまるでタンクだ。一ぱい汲みあげた水量のために、自分の重さでどいつもぎしぎしいっている。前世紀の巨大な恐竜の骨骼を、そのまま森にくみ立てたようなポンセゴン樹や、榕樹などが、奇怪きわまる肢体をくみあわせる。樹と樹とは、おしかさなったうえに、一そう、押しか朝なり、お互いに絞めあい、くさい息を吐き、全身汗まみれになって、血と血を吸いあい肥っている。」(『マレー蘭印紀行』)
 滞在中のある日、こんなことがあった。早朝、人声が騒がしいので窓を開けると、山に住む現地人が、木でつくった檻を担いで街へやってきたところだった。檻のなかでは大蛇がとぐろを巻いていた。下に降りて見に行くと、大蛇の全身はまるで金塊のような底光りを放っていて、わずかに鼻腔を動かしていた。
 どこからか中国人が大勢集まってきて、さっそく値をつけはじめた。中国人はなんでも食すが、大蛇の肉はとりわけ好物なのだという。やがて大蛇の首は切り落とされ、長く太い全身の皮がはがされ、肉は切りきざまれて天秤りにかけられ、男や女たちに買い取られていった。
 ジャワ、シンガポール、マレーそしてスマトラと、どこでも中国人が進出していて現地人にまじって活発な経済活動を行なっていた。中国本土では革命の機運が起り、その影響もこれらの地に及びつつあった。オランダやイギリスの官憲は警戒の眼を光らせているものの、その浸透を防げるものではなかった。金子も行く先々で次第に強まる日貨排斥の動きを感じずにはいなかった。
 スマトラにはもっと長く滞在したかったが、先を急がなければならなかった。「バレンバン――こゝは、バレンバン王国の古都――にくだるスマトラ縦断の汽車旅行は、いかなる犠牲をはらっても、是非決行したかったのであったが、時日をきって、待ち合わせなければならない人が、すでに巴里に到着しているので、第二の機会にゆずることのやむなきにいたった。」(『マレー蘭印紀行』)
 金子はこうしてメダンを発つことにし、その前夜、荒谷の家でEという人のコレクションを見せてもらった。いずれもスマトラの美術品で、「線がふとくて、感情が直截で、色彩が原始的で、大胆で、野蛮な意慾の世界が、なんの遠慮もなしにぐいぐいと表現されているのが小気味よかった。」(同)
 シンガポールへの帰りは、メダンからペナンを経由してシンガポールまで行く運賃の安い小さな中国船に乗ったが、これは失敗だった。周りの船客や船員は日本人の金子に厳しい眼をむけた。それでもボーイに一ドルを握らせて、相客の少ない部屋にもぐ込むことができた。シンガポールに着いたのは十一一月末だった。一カ月余りのスマトラの旅で、何とかフランスまでの船賃を稼ぎだすことができた。
 シンガポールではとりあえず馴染みの桜ホテルに入り、郵船シンガポール支店の船客係りである斎藤寛に連絡をとった。斎藤は三千代を先にパリへ向かわせた折に、パスポートを二つに別けるのに尽力してくれた人だった。
 斎藤は二、三日後にリバプール行きの船便があると教えてくれ、マルセイユまでの三等の切符代を支払った。このときの心境を、金子は自伝の『詩人』で書いている。
 「僕としては、たd、ゆきがかりの上で、遠い旅をつづけているので、ヨーロッパに対してさほどの食指がうごいているわけではなかった。むしろ、出来るならば、南方にもっと滞在するか、逆のコースをとって、中国の方へ戻りたいくらいだった。中国の方にこそ、もっと行ってみたいところが沢山あった。ヨーロッパは、僕にとって、もうわかり切った場所だった。面子上の問題ならは、日本を出たということだけで、沢山だった。誰も、じぶんに迷惑のかからない以上、僕らのことなんかそんなに気にしているはずがなかったのだ。
 だが、日本から、そんなふうにして遠ざかり、忘れられてゆくことは、はじめのうちこそ少々淋しい気もしたが、それですむものならば、その方が気がらくでもあったし、決してわるいものではなかった。苦労して、ヨーロッパへゆくことは、どう考えてもうっとうしいことだったが、女一人を先にやっていて、あとにしているとなると、責任上、金を送るか、じぶんが出むいていって始末をっする他はなかった。そのひっかかり一つでとも角、予定通りフランスまで行ってみることにしたのだったが、もう一度日本へ二人が帰るとなると、せち辛いヨーロッパの土地でどうやって帰路の旅費を入手できるものか、今度はもう全く目あてがつかないことであった。」(『詩人』)
 これが正直な気持だった。船待ちの二日間は、「南洋日日新聞」の長尾正平の家の厄介になった。この間長尾の蔵書から借りて、すでに読んでいたスティルナーの『唯一者とその所有』やレーニンの『帝国主義論』を拾い読みし、日本人が当地で創刊するという俳句の雑誌「ジャカトラ」(一九三〇年一月創刊)の表紙絵を描いた。
 日本郵船の「諏訪丸」に乗船したのは十二月六日。たいした関係もない女性が餞別をくれ、桜ホテルの主人がドリアンをもってきてくれた。だがドリアンは検疫の関係で船に持ち込むことはできなかった。
 夕刻に出航の銅鑼がなり、「諏訪丸」は壁を離れた。若者たちが爆竹を鳴らして見送ってくれた。このとき金子には、パリにいるはずの三千代から何の連絡も来ていなかった。


 
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by monsieurk | 2016-05-31 22:30 | 芸術 | Trackback(1) | Comments(0)
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