ムッシュKの日々の便り

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男と女――第三部(7)

 乗り込んだ諏訪丸のタラップを船底の三等に降りると、いつもと変わらぬ嘔吐を誘うペンキと人間の膏の臭いがまじった独特の臭気がした。しかし考えてみると、この船底ですごす間、ひどい食事さえ我慢しさえすれば、とろとろと寝ながら毎日が過ごせるわけであった。日本郵船の記録によると、諏訪丸は一九一四年に竣工した排水量一一、七五八トンの客船で、一等船客一二九名、二等五九名、三等客六二名の収容が可能だった。d0238372_15422014.jpg 
 金子が入った三等の八人部屋には、すでに四人の日本人の相客がいた。一人はロンドンへゆく留学生、もう一人はインドへ日本のリンゴを売りに行く年輩の商人で、商売品のリンゴは船の冷蔵室に入っているとのことだった。三人目は新聞記者を自称する男、そして四人目は仏教大学の教授で寺の住職も兼ねていて、フランス語訳のサンスクリットの仏典を研究するために派遣されたということだった。
 金子は乗船すると船べりの一番採光のいいベッドが空いていたので、その上段を占拠した。丸い船窓にブリキの風入れをはめ込んで涼風を楽しんでいると、船が大きく揺れた拍子に波がとび込み、頭からずぶ濡れになった。同室の四人はそれを見て笑っているのに違いなかった。そんなことから四人とは自然反目しあうことになった。
 二、三日経ったころ、くだん坊さんが面白いものがあると、金子をハッチにところへ連れて行った。そこから覗くと、中国服を着た肉付きのいい女性が、舞いとも体操ともつかない奇妙な踊りを一心にやっている。ときには中腰になり、上体を前に倒して、お尻を後ろに突き出したりする。そのポーズが艶めかしかった。後で知ったのだが、それは五禽の舞という健康法の一つだった。ボーイに確かめると、香港から乗って来た中国人留学生の一行四人のうちの一人で、ハッチを挟んで向こう側の船室にいるということだった。
 船がペナンに寄港したとき、街へ出て、中国製の安い革靴をさらに値切って手に入れた。パリに行ったときに下ろして履くつもりだった。
 航海がまたはじまった。エンジンの音、波の縦揺れ横揺れの翻弄されて、精神はいつも朦朧としていた。同室の日本人になじめないまま、ある日ボーイに訊ねると、中国人留学生四人がいる船室も八人部屋でベッドは空いているという。さっそくそちらへ移ることにした。日本郵船の船内はいわば日本の領土で、わざわざ外国人と一緒になるものはいなかったから同室の者も止めにかかったが、それにはかまわずスーツケースと靴の箱、それに身のまわりの品を持って、中国人の若者たちがかたまって過ごす船室に移った。せっかく彼らだけが水入らずで和んでいる船室の空気は、一ぺんに白けたものになった。
 それでも二組の中国人男女の留学生たちとは、半日もたたないうちに眼で挨拶をかわすまでになった。金子の片言の中国語はまったく通じず、筆談をかわすと、神経質らしい色白の女性は謝と名乗り、同じベッドに寝ている柳という青年はフィアンセで、二人はフランスで軍需品の製造を見学するのが目的だということだった。デッキで五禽の舞を毎日欠かさない女性は譚といい、パリへ軍事経理学の勉強をしに行くという。もう一人の陳は飛行将校でいつも下唇が下がった顔をしていた。譚嬢を追いまわすが相手にされていない様子だった。譚嬢は褐色の肌をした肉付きのよい女性だった。
 金子が中国人だけの船室に移ったことは、船客や船員たちの評判となり、ボーイは来るたびに二等の客へ出す菓子やコーヒーを差し入れては何かと話し込んでいった。金子は身銭で、ボーイに同室の四人にも茶菓を頼み、それがきっかけで彼らとは一層親しくなった。
食るものに目のない中国人の彼らは、沢山の食糧を船内の持ちこんでいて、絶えず口を動かしていた。譚嬢はときどきそれを金子にも持ってきてくれた。
 「彼女は、僕の裸の胸のうえに、蜜柑をのせていったりする。口のなかから、しゃぶっていた飴玉を指でとり出してのせてゆくこともあった。僕は、それを、うす目でみていた。飴玉を挟んだ指の手首をつかまえて、その指を舌先でなめると果して甘かった。その指先には、他に、薫香のような匂いの、苦い味がしみこんでいた。(中略)僕と彼女のその場限りのふるまいを、陳君が弛んだ唇をして、なめ取るように、そっくりみていたのに気付いた僕は、このかかわりがこのまま発展してゆけば、事と志が相反して、どのようなむずかしい事態にたちいたるかもしれないとおもう一方、はじめから志がそこにあったのかもしれないという気もするのであった。」(『ねむれ巴里』)(続)
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by monsieurk | 2016-06-03 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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