ムッシュKの日々の便り

monsieurk.exblog.jp ブログトップ

男と女――第三部(8)

 船がセイロン島のコロンボに寄港した。ここでは一昼夜停泊するので、下船して街を歩き、セイロン人の店で、五メートル四方もあるインド更紗の壁掛けを必要もないのに買い、その足で植物園へ行った。d0238372_15382352.jpgその後船舶の食糧の仕入れを生業とする南部兄弟の店を訪ねると、諏訪丸の船員たちも来ていて、女主人と猥雑な話題で盛り上がっていた。南部の二人の兄弟は、シンガポールとスエズのポートサイドで同じ賄い業をやっているとのことだった。その夜は、店で顔をあわせたイギリスへ留学する青年と一緒に絨毯の上でごろ寝をしてすごした。二人が帰船すると、待っていたように諏訪丸は出航した。
 夜中に金子が眼を覚ますと、譚嬢は陳君とは離れ離れに金子の下のベッドで寝ていた。掛け梯子をつたって下りると、譚嬢のシャツがめくれて鳩尾の辺りが裸になっていた。しばらく彼女の寝顔を見ていたが、お腹の割れ目から手を入れて身体を触ると、じっとりと汗ばんでいた。腹から背中の方へ手をまわすと肛門らしきものを探り当てた。その手を抜いて指を鼻にあてると、日本人と変わらない糞臭がした。同糞同臭だという思いと、フランスの詩人ポール・フォールの、「お手々つなげば、世界は一つ」という小唄の一節が浮かんできて可笑しかった。
 甲板に上がると、満月に照らされた海が船をのせる丸盆のように小さく見えた。甲板では、日本人たちが酒盛りをしていて、飲めない酒を無理強いされて、あとは船室の藁布団で昏々と眠る羽目になった。金子はのちに詩篇「航海」で、このときのことを、
 「彼女の赤い臀の穴のにほひを私は嗅ぎ
  前檣トップで、油汗にひたつてゐた。」
 とうたっているが、破廉恥ともいえるこの行いは、金子光晴のエロス、そして人間観察の原点をはしなくも示している。
 金子の糞尿趣味(カストロジー)は少年時代からのもので、美校の入学したときも、「(先生は)モデルは眺めて描くもので、とえりかこんでいじるもんじゃないなんていうの。こっちは触ることが好きなんだ。見るとか、嗅ぐとかいうより、触るってことは下等な感覚らしいんだが、ぼくは触らないとだめなんだ。女の体なんかも触ってゆくと骨格なんかがわかるでしょう。肥っているけど骨は華奢だとか、尾骶骨が突ン出ているとか、そういうとこね、触ると快感があるんだなあ。仕方がないんだこれ、癖だから」(『人非人伝』)という具合だった。
  金子にとって、人間探求の対象は女であり、しかもその究極は彼女たちがもつ器官であった。この逸話のもう一つの要素は、彼がそこに「同糞同臭」を感じ、「お手々つなげば、世界は一つ」と思っていることである。しかもそれがイデオロギーなどではなく、彼の生理に根ざす確信であることが重要だった。ただ金子は船旅について、こうも書いている。
  「中国人と日本人の差別は、彼ら四人の留学生たちにとっては問題かもしれないが、僕には、男と女でしか人間の区別がつけられず、その他のタブーは、僕にとっては恐怖でしかなかった。彼女らが、僕ら日本人に手榴弾を投げ、僕ら日本人仲間が、彼女らを強姦したあと、銃剣で突刺しながら、奥へ、奥へ、踏みこんでいった、数年後を待ってはじまる恐るべき事態を、僕は、ゆめにも想像していなかった。むしろ、排日をめざして、軍事教育を受けに渡仏をする彼や、彼女の方が、はっきり現実を見ていたにちがいなかった。」(同)
  船はインド洋を越えペルシャ湾に入った。次の寄港地のアデンは、詩に愛想をつかしたアルチュール・ランボーが、アビシニア(現在のエチオピア)の国王相手に商売をするための根拠地にしていた所だが、そんな活気はすっかり消えうせていた。
  港の堤防の外では、流れてくる餌をねらって多くの鱶が泳いでおり、街では着飾った女たちが歩いていた。それを目にした金子は、「愚妻が餓死寸前で僕を待ちうけているかもしれない(それも待ちきれなくなって、なにか別の手段、例えば牛を馬に乗換えているかもしれない率も大きい)そんなパリは、僕にとってはこのもの淋しい亜丁(アデン)の港と変わりない荒廃の場所であって、パリを横目で見すごして、イスタンブールの路地裏にでも住みついたほうがいいという誘惑」(同)にかられたりした。
  紅海に入ると気温が急激に上がり、船内は蒸し風呂のようになった。甲板に出てみると、岸が近く、砂漠のなだらかな風紋の丘を、ラクダと人が歩いているのが見えた。アデンからはフランス人の将校が二人と、アフリカ人の若い兵隊が乗り込んで来て、彼らの船室に入った。将校の二人は大男で、中国人の女性をちらちら見たり、口笛を吹いたりして落ち着かなかった。そしてフランス語で話で話しかけたが、国を出る前にフランス語を勉強してきたはずの謝嬢も譚嬢も、一言もフランス語で答えることができなかった。フランス将校たちは、次の寄港地のポートサイドで、大きな靴の片方を忘れたまま下船していった。
 スエズ運河を抜けて地中海に入ると、気候は暦通り冬になった。次の寄港地ナポリに半日停泊したあとは目的地のマルセイユで、シンガポールを出てから二十五日ほどの船旅であった。
 金子はスーツケースから一張羅のモーニングを出して着こみ、その上に冬の外套を羽織り、新品の靴を履いて下船した。十年振りのマルセイユはまったく変わっていないように見えた。税関で通関をすませ、所持金を換えると、フランが弱く交換レートは一フランが八銭で、二千フランほどになった。
 初めての土地でまごついている四人の中国人留学生を連れて、日本人の案内人に勧められるまま車でマルセイユの名所を見物し、貧相な日本料理屋で日本めしを食べたあと彼らと別れた。
 気がかりなのは、この案内人が教えてくれた三千代の消息だった。彼女は一カ月半ほど前にマルセイユに着いたが、インド洋で高熱の病気になり、船医の世話で少しな回復したが到着したときも熱があった。土地の日本人が心配して賄人の家で養生してはと勧めたが、本人は「死ぬならパリの土を踏んでから死ぬ」といっ聴かず、その日の夜行でパリに向かったということだった。数えてみると、パリへは十一月末に着いているはずだったが、その後の消息はわからなかった。
 金子は駅へ行ってその日のパリ行き夜行列車の切符を買った。汽車が出るまでには四、五時間あるので街を歩いていると、最初に同室だった日本人たちと出会った。彼らの希望で曖昧宿に連れていったが、三千代のことが気がかりな金子は女を相手にはしなかった。時間が来て、空っぽのスーツケースを手に夜汽車に乗ると、四人組の中国人留学生とまた一緒になった。彼らは心強いと喜んでくれた。


 
[PR]
by monsieurk | 2016-06-06 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://monsieurk.exblog.jp/tb/23155603
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
line

フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31