フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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男と女――第四部(1)

 マルセイユを発った夜行列車は、アヴィニョン、リヨンと寝静まった駅を通過して、パリの南六十キロほどのフォンテーヌブローを通過するころに夜が明けた。窓の外を冬枯れの田園風景が流れ去った。終着のリヨン駅(Gare de Lyon)に着いたのは、朝早い時間であった。d0238372_7431866.jpg  駅の構内を覆うガラス張りの天井の下にまで霧が流れ込んでいた。金子は『ねむれ巴里』で到着したのを東駅と書いているが、これは記憶ちがいである。パリには六つの主な鉄道の駅があるが、南から来る列車はリヨン駅(Gare de Lyon)に着く。
  一緒だった中国人留学生たちとは、プラットホームを歩いているうちに自然と別れるかたちとなり、金子は駅前ホテルのカフェのテラスに座ってカフェ・ナチュールを飲んだ。フランス人がよく飲む薬草入りのコーヒーで、眠気が覚めるとともに、パリに来た実感が湧いた。
  森三千代を探すことが先決だったが、どこにいるのかが不明だった。そこでカフェに備えつけの電話帳で日本大使館の所在地を確かめ、駅前でタクシーを拾って、十六区のトロカデロ広場に近いグリューズ通り二十四番地にある大使館へ向かった。街はまだ霧が深く、行きかう車はみなヘッドライトを灯していた。
  大使館の受付で訊ねると在留邦人名簿を見せてくれ、うしろ方に彼女の住所が書き込まれているのを見つけた。それはパリ五区のホテル・ロンドルとなっていた。受付の人が、地下鉄(メトロ)でも十分ほどだと親切に教えてくれたが、地下鉄の乗り方がよく分からないので、ふたたびタクシーで行くことにした。
  この三千代の滞在しているホテルを探し当てる件でも、『ねむれ巴里』には混乱がある。金子は大使館から真っ直ぐに、訪ね当てたように記述しているが、このとき三千代はすでにホテル・ロンドルには居ずに、パリ六区のリュクサンブール公園にある上院(セナ)の建物の前からセーヌ川の方向へ伸びるトゥルノン通りにあるホテル・トゥルノンへ移っていたのである。したがって金子は、三千代がパリに来て以来転々としたホテルを訪ね歩いた末に、夜になって彼女がいるホテルを探し当てたというのが事実である。d0238372_7453979.jpg
  ホテルの一階は食堂とバーになっていて、出てきた厚化粧の女主人が、日本人女性は四階にいると教えてくれた。再会の場面は、『ねむれ巴里』では以下のように描かれている。
 「狭い階段をあがってゆくと、ドアが二つあったが、くらいので部屋の番号がよめない。構わず、一つのドアをノックすると、「誰ですか」と答えたのは、まちがいなく彼女であった。
「僕だよ、金子・・・」
 と答えると、
「来たの?」
 おどろいて立ちあがるような気配だった。
 ――誰かいっしょにいるのかもしれない、とおもったので、僕は、早速に手を掛けたドアの手を離して彼女が誰かと一緒にでもいたときのばつの悪さを考えて、一度念を押して、
「入っても、大丈夫なの?」
 と訊ねた。その扉は、内から開かれた。見廻した部屋のなかは、彼女ひとりだった。それでも猶僕はためらって、
「いいのかね。誰かが帰ってくるのではないか?」
 とためらい、もしそうならば、入らないでそのまま立ち去って、どこかの部屋をじぶんでさがそうと思案がついていた。賽の目のようにどっちへころぶかわからないあぶない運命のうえでぐらぐらしながら僕は、それがどっちへころげても、足をすくわれることのないように、心の訓練ができているのだという自負が、あいてに対してよりもじぶんのために是非とも必要なのであった。それでいて、僕の感覚は、そのうすぐらい部屋のなかから、ごまかしきれない証拠をさがして、棘の立ったように立ったまま、部屋のなかを見廻していた。彼女の方でも、言訳らしいことは言わないで、いっしょに立っていながら、口早に、彼女の情況を説明した。」(『ねむれ巴里』)
 三千代の説明によると、船が紅海に入ってアデンに近づいたときから、すっかり食欲がなくなり、毎日三十八度近くの微熱が続き、船医に診てもらったが原因は分からなかった。紅海病(紅海特有の熱気のための日射病)かもしれないということで冷凍室の隣の隔離病室に入れられた。壁は白いペンキで塗られ、丸い窓が一つあるだけだった。一日に一回、事務員と船医が見にきて、午前には冷凍室に用事がある司厨夫がのぞいて、枕元に果物などを置いて行ってくれた。スエズ運河を通り、地中海をこえてマルセイユに到着したのは十一月二十七日だった。
 マルセイユに着いても病状はおさまらず、マルセイユには一泊もせずに夜行列車でパリへ向かい、金子がカフェを飲んだホテルに一泊した。それからモンマルトルにある唯一の日本旅館である諏訪ホテルに二、三泊して休養した。
 ホテルに客を探しに来る案内人が親切にしてくれたが、すぐに同棲を迫ってきた。その男を避けるために、スラバヤで松原晩香からもらった紹介状をもって画家の上永井正を訪ねて、カルティエ・ラタンの五区にあるオテル・ロンドルを紹介されて部屋を借り、大使館へ行って居住登録をした。十二月になると健康も回復し、上永井から画家仲間などを紹介され、食事に招待されたりパリを案内されたりして、あまり所持金を使わずに過ごすことができた。
 いまのホテルへ移ったのは、上永井の知人の家の食事会で、仏文学者で評論家の木村毅に会い、木村が急にスペインへ行くことになり、一カ月分の部屋代を払ったばかりだから、誰か住まないかと言った。三千代は渡りに船と借りることにした。それがこのホテルだと、この一カ月ほどの日々を話して聞かせた。ホテルの部屋には中庭に面して窓があり、そこから穴の底のような中庭と向かいの部屋が見わたせた。(続)
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by monsieurk | 2016-06-09 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)