ムッシュKの日々の便り

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男と女――第四部(2)

 ところで、金子が三千代の居場所を探し当てて再会したのは、正確には何日のことなのであろうか。金子の記述をもとにした幾つかの伝記や年譜では、一九三〇年一月二日だったとしている。一方三千代の『去年の雪』によれば、 それは前年一九二九年の十二月も押しせまった暮れのことだったという。
 三千代はパリ時代について、小説の『去年の雪』、『をんな旅』、『巴里アポロ座』で取り上げ、さらに当時の日記の断片が堀木正路の手で構成されて、雑誌「面白半分」の一九七二年(昭和二七年)四月号から八月号まで、「森三千代の日記 パリ篇」と題して公表されている。
 日記は一九二九年十二月十七日からはじまるが、金子がホテルを訪ねてきた日のことには触れられていない。この日のことを書いているのは『去年の雪』で、この一節にはこうある。
 「突然、なんの前ぶれもなしに、シンガポールで別れたままの小谷(金子)が、ホテル・ロンドル〔三千代の記憶違い〕をたずねあてて、やって来た。おしせまった歳末の夜の十二時ごろだった。その朝早く、リヨン停車場に着いた彼は、十三子(三千代)が二ケ月〔ママ〕前巴里へついてから三たび移り変ったアドレスを次から次へ一日かりでさがし歩いてやってきたのだ。彼が部屋にはいって、手にさげた鞄を床におくなり、十三子は、「あと一日で、私もう、ここにはいなかったのよ」と、つっかかるように言った。それはほんとうだった。月がかわると、早々、十三子は、国際博覧会の日本商品市の女売子になって、スペインのマドリッドへ発つ筈だった。申込みをして採用の通知がきたばかりのところだった。」(『去年の雪』)
 三千代が一人でパリに着いたとき、所持金は節約しても一カ月生活できるかどうかとう額であり、早く仕事を見つける必要があった。大使館で居住登録をした折にも仕事の斡旋を頼んだが、それは出来ないと拒絶された。幸い頼って行った上永井が親切で、画家を中心に知り合いを紹介してくれ、彼らは当時パリでは珍しかった女一人の三千代を、モンマルトルやモンパルナスの盛り場へ食事に誘ったり、劇場やバーに同行したりしたが、その親切の裏にある魂胆が見え見えだった。
 公表されている最初の日記は到着から十日ほどが経った十二月十七日のもので、次のように書かれている。
 「蝸牛のようにぐるぐる旋回した六階の階段を上り切ると、もうものも言えない位、息が咽喉の奥でぜいぜいいって動脈の音だけが、いやにはっきり聞える。
 鍵穴の中で鍵が一つくるりとまわって、扉が内側へそっと身をひくと、廊下より冷たい部屋の湿ったような寒い空気がさっと香う。
 そんな六階の小さな部屋の中で、私は朝、昨日ののこりのバナナの皮をむいて頬ばりながら、床の中で、聞くのだ。都会の音楽を。私はじっと耳をすます。聞いたこともない音楽だ。それは心の中にどっかにあるようだ。一つの悲しげな痛ましい調子をもって胸の中へ鳴りひびいている。(中略)
 あんなことはなんでもない、あんなことはなんでもない。
 意志しないそれが何であるものか。
 私はどんな勢いで夜学へいったろう。何もかも無視して。それで洗われている。」
 ここでいう「あんなこと」が何を指すのか。彼女の意志とは関わりなく行わざるを得なかったものとは何か。日記では具体的に記されていないが、異国の地で女一人が生活する上での気に染まぬ事柄だったことは容易に想像される。その嫌な思いを振り切るためにも、彼女は外国人にフランス語を教える「アリアンス・フランセーズ」の夜学に通うことにしたのだった。
  『をんな旅』の「パリに寄す」では、「よごれたラベルを貼りつけたスートケース。ひしゃげたトランクを先棒にしたまゝで、私は、いきなり、巴里の生活の波のなかに飛び込んでゆかなければならなかつた。その波に溺れながら、呑なれながら、その度に、巴里の機構(からくり)を會得し、その中の一個の存在として、自分を意識してゆかなければならなかった。
 それは全く必要なことだつたのだ。巴里へ着いた私は、一ケ月の生活を支えかねる無経済状態だったからだ。巴里は、笑顔のうしろから、早速、その鞭を鳴らしはじめた。」と述べている。
 そもそもなぜ二年におよぶ旅の果てに、いまパリにいるのか。十二月十七日の日記の最後には、こう書かれている。
 「私は剣に誓う。
 自分の生涯で最後であるこの恋とともに生き、そして死ぬことを。
 私の勉強、それはみなあなたへの為であるかもしれない。私の心からの衝動だけではないかもしれない。
 私の芸術。それはあなたへの高まる欣求とともに養われてゆくだろう。
 私にとつてはみんな一つだ。一つの中心をとりまく一箇のみいら〔傍点〕である。」(『日記』)
 彼女の心中で、別れてきた土方定一への想いは決して消えていなかったのである。次の二十日の日記には、「ベッドの上で、六階の上の廊下のような細長い部屋、場末のホテルで、私は子宮を病んでいた。」と書かれている。
 日記によると、二十二日は朝から雪が降り、夕方には霙に変わった。d0238372_1516564.jpg
この日は地下鉄パストゥール駅に近いパリ十五区のシテ・ファルゲールの上永井(写真)のアトリエを訪ねたシテ・ファルゲールは画家たちのアトリエが集まっているところで、上永井のアトリエではストーブががんがん燃えていた。暖をとるのもここへ来た目的の一つだった。この日の朝、部屋を貸してくれた木村毅がスペインへ出発した。
 十二月二十四日の日記。
 「Noëlの日
 十二時にノートルダムの金が鳴りひびいた。
 あたしは部屋の中で袢纏をひっかけてみたり、脱いで見たり・・・
 あたし、どうしたのかしら
 文法も読めなくなってしまった。
 カッフェを沸かして、飲む。そして考えてしまう。
 三日まえから、又、おなかが空かなくなってしまった。いつもの例のくせ〔傍点〕よ。あの時もそうだったわ。Monsieur Hizikata。そして、いまも・・・・
 雪雪雪雪雪雪 Yuki
雪があんなに降っている。あたしの心臓の壁の上に。
 寒いこと、冷たいこと。冷たい冷たい雪だこと。

 でもまあ、なんて部屋の中はむしむしして頭の痛いことでしょう。
 空を少し開けて下さい。

 中華飯店で晩餐。
 Mr. Bô, Mr. Katsumata, Mrs. Bô, Kaminagaiとあたし。

 それからタキシ―でモンマルトルへゆく。

 ムーラン・ルージュはグレタ・ガルボだけど満員で入れない。d0238372_15181327.jpgそれからCafé, Mikadoへゆく。
 リキュールを飲んでボルガボードマンのオルケストラ。パイプオルガンがわたしの耳のそばで鳴る。
 それからサクレクールへ上っていった。

 トリニテの教会は儀式の最中であった。
 天上でのような合唱が高いところから聞える。

 Café・Olympiaの乱舞よ。
 あたしのキモノがそんなに珍しいの?
 あなた達はキモノと踊りたかったんでしょう。でも面白かったわ。
 すいぶん面白かったわ。」
 クリスマス・イヴは一年のうちでも一番大切な祝日で、人びとは教会へ行き、団欒を楽しむ。異国にいる三千代たちは、雪の寒さにもかかわらず盛り場に繰り出して楽しんだのである。左岸の中華料理屋で、上永井やその友人たちとの食事のあと、タクシーでセーヌ川を越えて右岸のモンマルトルへ行った。ムーラン・ルージュは人気のグレタ・ガルボが出演していて満員で入れず、近くのミカドで酒を飲みながら音楽演奏を楽しみ、もう一つの盛り場であるイタリア大通りを通ってトリニテ教会をのぞくとミサの最中だった。荘厳なパイプオルガンと合唱を聴き、カフェ・オランピアに落ち着いてダンスを踊った。この日三千代は着物姿だったから、フランスの男たちは珍しがって相手を申し込んできた。ホテルへ帰り着いて寝たのは明け方の五時であった。
 翌二十五日のクリスマスは、午後三時にようやく目を覚ました。そのあとまた上永井に誘われてオペラ通りへ行くが、劇場はどこも満員でモンマルトルへ行った。冬のパリでは午後三時をまわれば夜の帳がおり、ムーラン・ルージュの電飾の水車が静かにまわっていた。牡蠣で有名なレストラン・ピエールで食事をして、映画を見た。この日は柳井、中西、鈴木といった人たちと会った。当時パリにいた画家たちと思われるが詳細は不明である。
 二十七日、午後二時に起きて、手紙を一本書き、近くのリュクサンブール公園にある美術館で絵を見る。アリアンス・フランセーズの同じクラスのドイツ人女性に出会う。鈴木のアトリエへ行くと、勝俣、長瀬がおり、やがてモデルが二人やってきて、絵を描くのはそっちのけでダンスがはじまった。
 木村毅が戻ってくれば部屋は明け渡さなければならないので、次の部屋探しにホテル・セレクトへ行ってみるが空いた部屋はなかった。夕方六時に上永井のアトリエへ行くと、画家の辻に会う。辻は「アポロ劇場」で役者の真似事をやっており、彼について劇場へ行った。劇場は地下鉄トリニテ駅に近く、カジノ・ド・パリの隣で、楽屋口から入れてもらう。上演していたのは『上海』で、主役の中国人役を女優のジャン・マクドナルドが演じ、辻は苦力の一人で出ていた。芝居には東洋の女の役もあるというので採用を頼んだ。
 舞台が十一時はねたあとまたモンマルトルへ行き、ピガール広場のブラッスリで午前一時まだ話し込んだ。
 こうして日記をみると、三千代は女性の特権をいかして、パリの独り暮らしを楽しんでいるように見える。金子が不意に現れたのは、こうした状況のなかであった。
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by monsieurk | 2016-06-12 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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