フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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男と女――第四部(3)

 金子の『ねむれめ巴里』によれば、三千代はこのあと下に降りていって、イタリア人が営む近くの惣菜屋(シャキトリ)から、キャベツとソーセージを煮込んだシュクルットと肉を詰めて丸ごと焼いたトマト、それにソーセージを挟んだパンを買ってきて、ブリキの入れ物でコーヒーを沸かして二人で食べた。長い船旅の食事に辟易していた金子には、こうした簡単な食事が美味かった。
 もしこの記述が事実とすれば、金子がホテルを訪ねたのは、総菜屋がまだ店を開けていた夜も早い時間だったと思われる。そうだとすると、到着が十二時近かったという三千代の記述は記憶違いということになる。『ねむれ巴里』の続きにはこうある。
 「食事がすむと二人はベッドに入った。ベッドは、日本のふとんを三枚重ねたくらいのひくいもので、男と女が相寄って寝るには恰好のものであった。欲情は、新鮮さをとり戻し、新婚の若者同士のような交歓がつづいた。その途中で、誰かがドアを叩いた。
「××です。御留守ですか?」
 と声を掛け、扉のハンドルを廻したが、鍵がかけてあった。
「いま、金子が来たところです。また来てください。主人を紹介します。いまは、疲れてねているところです」
 と、彼女が大声で言うと、訪ねてきた人は舌打ちをしてかえっていった。
「一番熱心にやってくるのよ、あの人・・・」
 と、彼女は、僕の首に腕をまわして僕の耳もとで囁いた。」(『ねむれ巴里』)
 三千代の心のなかの土方が消えていなかったとしても、身はまた別であり、二人は一カ月ぶりの再会を肉体で確認したのだった。ただ話の絶妙のスパイスとなっている、この夜誰かが訪ねてきたのが本当かどうか。虚実のほどは分からない。ただ三千代は金子にたいして男友だちのことを隠さず、交情についてもあけすけに語るのはいつものことだった。
 翌日から三千代が先に立ってパリ見物がはじまった。金子はモーニングと外套を着て、ペナンで買った新品の靴を履いて出かけたが、しばらくすると靴擦れで足が痛くなった。地図を片手に左岸のもモンパルナスから、セーヌ川をこえた右岸のモンマルトルと歩きまわった。フランスではクリスマスを盛大に祝い、レヴェイヨンといって大晦日の真夜中をみなで祝福する他は正月を祝う習慣はなく、普段通りの生活が続いていた。
 金子と三千代はパリ見物の途中、彼女が着いて早々世話になった諏訪ホテルを訪ねて礼をいった。ホテルの主人は諏訪秀三郎といい、和歌山出身でこのとき七十五歳だった。一八七二年(明治五年)、十五歳のとき陸軍幼年学校の選抜留学生としてパリに派遣され、二年後に一度帰国した。その後井上馨のお供でパリに戻り、数年間勉強したところで帰国命令が出て日本行きの船に乗船した。だがパリの恋人が忘れられず、途中の経由地から引き返したため、軍籍を剥奪されるという経歴の持ち主だった。諏訪は一八八〇年(明治十三年)にベルギー人の寡婦と結婚して、モンマルトルのクリシー大通り六番地(Boulevard de Clichy 6)の五部屋ほどのアパルトマンを買い取ってホテルをはじめた。資金は夫人の持参金だったという。
 ここには初めてパリに北多くの日本人が泊り、そのなかには南方熊楠もいた。南方はある手紙で、障子を隔てて聞いた諏訪のフランス語はフランス人と変わらないと伝えている。
 諏訪にどこか見物しておくところはないかと訊ねると、フォンテーヌブローの素晴らしさを話し、そこにあるオテル・レーグル・ノアール(Hôtel l'aigle noir・黒鷲ホテル)に泊まるように勧めて、紹介状まで書いてくれた。二人は所持金がなくならないうちにと、翌日フォンテーヌブローへ向けて発つことにした。
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by monsieurk | 2016-06-15 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)