ムッシュKの日々の便り

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男と女――第四部(5)

 金子光晴と森三千代が前後してパリに着いた一九二九年(昭和四年)、世界は激動のなかにあった。この年十月二十四日、ニューヨーク株式取引所で株の大暴落がはじまり、経済恐慌の波はアメリカからヨーロッパやアジアへ広がった。d0238372_10393835.jpg日本では生糸相場が暴落。十一月二十一日には、大蔵省が金解禁に関する省令を公布し、翌年の一月にはこれを実施した。
 影響は当然フランスにもおよんだ。二人がマルセイユに上陸したとき、税関でパスポートに入国許可の印をもらったが、そこには同時に「外国人のフランスでの労働を禁ず」というスタンプが青インクで捺されていた。フランス政府による自国の労働者保護の政策の結果だった。
 第一次大戦の結果、ドイツから多額の賠償金を得たフランスは、それをもとに大恐慌の影響を回避しようとした。しかし一九三〇年になって、イギリス・ポンドが金本位制を離脱すると、フランス経済は下降線をたどり、失業者が急増した。それでなくとも第一次大戦後、フランスにはロシア、東欧、アイルランドなどから外国人の流入が移民が増えていた。三千代は『をんな旅』で、自分たちが置かれた情況を次のように書いている。
 「外國人が職業をさがすことなんか、巴里では、コロナ葉巻の吸ひかけをさがすより至難なことです。全く、イタリー労働者の大群と、ロシアの浮浪人は、國外に遂はれ、外國人の査證(カルト・イダンチテ)は面倒になつた。労働證明書のない外國人を使用した傭主は、その使用人と共に、見つかり次第、罰則を喰つた。その上、その證明書を手に入れることは不可能に近いことであつた。だから、勢ひ、山かん、インチキ、もぐり、さもなければ、ルンペンの仲間の間を食べて歩いてゐるより仕方がない。働らくといつても、正面から働く方法は閉ざされてゐるのである。
 私が、はじめて飛びこんだ巴里は、さういふところだつた。」(「巴里に寄せる」、『をんな旅』所収)
 金子と三千代はフォンテーヌブローからトゥルノン通りのホテルに戻った。疲れた身体を支え合うように腕を組んで階段を上ろうとする二人へ、一階のバーから出てきた家主の老嬢が、「おかえり。おふたりさん。新婚旅行は、さぞたのしかったでしょうね」と声をかけた。
 木村毅の好意で借りているホテルも、あと半月ほどすれば出て行かなくてはならないのだが、行く先の目当てはまったくなかった。しかも三千代の使い残しや金子が持ってきた金はフォンテーヌブロー行であらかたなくなり、働き口を探さなくてはならないのだが、その算段もつかった。
 金子たちがパリに戻って、最初に訪ねてきたのは画家の辻元廣だった。香港で金子より先に籤引きで絵を売っていた人物で、二人より先にパリへ来ていたのである。辻は「アポロ座」で上演中の『上海』の苦力役の一人として舞台に出ていて、三千代が上永井に連れられて楽屋を訪ねた折に知り合ったのだった。
 このとき三千代は、姑娘役を斡旋してほしいと頼んだが、舞台経験のない彼女には無理な話だった。しかし三千代の話では、監督助手のフランス人と募集係の男に接吻を迫られ、それで断って逃げる拍子に一張羅の外套を釘にひっかけて破ってしまったのだという。元来嘘は苦手の彼女だが、金子との生活を重ねるうちに修行を積んでいたから、この話も簡単には信用できなかった。
 辻が訪ねてきたのは三千代の仕事の件だった。バレー畑の日本人舞踊家が、ヨーロッパ各地を日本舞踊をもって巡業するが、三千代のことを聞いて、ぜひその相方に頼んでほしいと言っているという。これが本当なら、金がもらえる上にヨーロッパ各地を旅できるわけで、願ってもない話だった。辻にその舞踏家のことを訊ねると言葉を濁して話さない。どうやら三千代一人を連れていく算段らしい。上永井にこの話をすると、舞踏家のことはよく知らないが、巡業中は一つ部屋で暮らすことになるのがヨーロッパの常識だといった。これを三千代に伝えると、彼女は尻込みした。
 「男と女のあいだの契約(ちかい)など、生きる、死ぬの生活の、黄金万能の鉄則の前では、みじんに砕けて当り前なことだという辛いこの街の底辺の寒気立つようなものの考えかたには、〔彼女は〕まだ程遠く、苦難とおもえたこれまでの旅も、落ちつくはてのパリの寒冷地獄にくらぶれば、甘えとたのしい旅の好味ののこり香のさめない、恥のかき棄てのわらい声もまじる金鞋道中のほがらかさがあった。」(『ねむれ巴里』)
 日本で料理の修行をしてきた辻自身は、パリの北はずれにあるポルト・クリニャンクールに住むアメリカ人の老嬢の家に入って、料理から身のまわりの世話をして重宝がられているということだった。
 同じときに、金子にも仕事の話が舞い込んだ。面識がない木村という男がやってきて、オペラ帰りの老婦人にサービスをする役をやらないかというのである。この男もかつてイギリス人の親方のもとで、これをやっていたが、最近日本人の一人が辞めたのでその後釜を探しているという。相手の婦人はみな五十歳がらみの未亡人で、濃厚なサービスをすれば相当な金になるという。こんな話が持ち込まれるほど、金子の悪評はパリ到着前から、日本人社会の一部で広まっていたのである。金子は木村が帰ったあとで、この話を三千代にしてみた。
 「「俺が男娼になって、君がくわえ楊枝というくらしも、正直言ってどんな気がするかきかせてくれないか」
 と、木村が帰ったあとで訊ねると、
 「それもおもしろいけど、さわられるのもきたないあんたともうねる気にはなれないわね」
 と、彼女は言う。女には、女マクローになれない手前勝手な誇りがあるようだ。(中略)
 「こんなことをしてぐずぐずいていると、私達、どんなひどいことになるかわからないわねえ」
 彼女は、今、はじめて知ったように、そんなことを言う。ゆく先のくらいことは、はじめからわかっていることだ。パリの疾風に襲われれば、糊はみなはがれて、くっついていたなにものも、もとの空無にかえる。夫婦づれでパリに着いた男女は、目の前でふわけ〔傍点〕されて、帰るときは別々に、女の根性は入れ変って、それこそエガリテ、リベルテに徹する道をおぼえて、新しい脱皮を遂げ、ちがった女になって帰る。しかし、日本の土を踏むと同時に、またもとの日本女にかえることになるのがおなじ筋道だが、それは、女の幸、不幸とは全く別な話である。」(『ねむれ巴里』)
 三千代はこんは話が出ていた間も、トゥルノン通りのホテルからさして遠くないラスパイユ大通りのアリアンス・フランセーズに通い、ダンス教師について上海以来の社交ダンスのレッスンに精をだしていた。
 切羽詰まった金子は、日本を出る際に立ち寄った大阪の新聞社からもらった特派員の辞令をもって、在仏大使館を訪ねた。当時の駐仏大使は芳澤謙吉で、駐在武官の蒲少将が応接してくれた。金子は武官を前に、パリにいる画家やその他の在留邦人の窮状を訴えて、なんとか彼らのためになる施設をつくりたいと、長広舌を振るった。すると少将は、「それはわるいことではない。多くは出来ないが、少しずつでよければ援助しよう」といって、千フラン紙幣を一枚わたしてくれた。干天の慈雨とはこのことだったが、難民のなかでももっとの力のない金子に難民救済などできるはずはなく、武官も腹のうちでは彼の魂胆を身透かしていたにちがいなかった。
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by monsieurk | 2016-06-21 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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