ムッシュKの日々の便り

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男と女――第四部(8)

 五月のはじめ、松尾邦之助がパリにいる日本人の名簿をつくる仕事を手伝う者を探していると聞いて、パリの南側に位置するポルト・ドルレアの部屋貸しアパートを訪ねた。
 松尾邦之助は静岡県浜松市の生まれて、金子より五歳下であった。d0238372_11341480.jpg 東京外国語学校仏語科を卒業後、関東大震災の前年の一九二二年(大正十一年)十月、諏訪丸の二等船客となってフランスへやって来た。ちなみに二等の船賃は六百七十円だったという。
 パリでは政治学院(シャンス・ポ)へ入学すべく勉強したが神経衰弱になり、その後フランスの貿易商に勤めたあと、日本大使館の理事官の口利きで、一九二五年三月にはパリ日本人会の書記となった。
 日本人会は凱旋門に近い十七区のデバルカデール通り七番地に事務所を構えていて、松尾は二階の小さな部屋で執務し、夜は三階の穴倉のような部屋で寝た。建物の地下では斎藤という板前が食堂部を経営していて、在留邦人や船乗りたちで賑わっていた。
 柔道の普及のためパリにやってきた石黒敬七が週刊新聞の刊行を思いつき、松尾は一九二五年八月、石黒を社長にすえて「巴里週報」を創刊した。d0238372_11353217.jpg謄写刷りの週刊新聞は在留邦人に重宝がられ、大使館からの連絡や、読者の投稿のほかに、松尾も毎号のようにパリの名所案内や随筆を載せた。
 当時パリには、藤田嗣治、高野三三男、佐伯祐三などの画家をはじめ大勢の日本人がいた。第一次大戦前は二桁にすぎなかった在留邦人は、大戦後日本でフランス・ブームがおこり、一九二五年にはフランス在住者が九七四人、そのうちパリ在留が過去最高の八三六名を数えた。彼らの多くは「巴里週報」を購読し、日本人会は宴会場のほかに、あるときは喧嘩の場となった。やがて会は年に一度画家たちの展覧会を開くようになり、松尾は日本人社会の潤滑油的存在になっていた。
 雑誌「Revue franco-nipponne(「日佛評論」)」が刊行されたのは、一九二六年二月のことである。「巴里週報」の愛読者だという中西顕政の資金提供を受けると、松尾は藤田嗣治やギメ美術館の茶会で知り合ったフランス人オーベルタンに協力を求めた。オーベルタンは文部大臣官房長官などを歴任したあと、政治の世界を離れて仏教や東洋哲学の研究を行なっている人物だった。こうして松尾を中心にフランス語の「日佛評論」は、一九三〇年一月の第十二号まで刊行される。松尾は十四区のアミラル・ムシェ通り二十二番地のアトリエを借りて、そこに印刷機を置いて印刷所をはじめた。薄暗い中庭の奥にある印刷所は、仲間うちでは「穴」と呼ばれていて、「日佛評論」は第七号以降ここで編集、印刷された。
 松尾は一時帰国して結婚したあとパリに戻ると、雑誌を刊行するかたわら、一九二九年六月に日佛文化連絡協議会を創設して、機関誌「巴里旬報」も発行した。
 創刊号にはパリ在住の日本人有志のほかに、二十人をこえるフランス人が会員として名を連ねた。主な会員は、島崎藤村、堀口大學、山内義雄、野口米二郎、内藤濯、文人外交官の柳沢健などで、フランス人の会員には、アンリ・ド・レニエ、ジャン・ポーラン、シャルル・ヴィドラック、ポール・クーシェなど著名な作家や編集者、日本文学の研究者などがいた。
 協議会の仕事は、旅行者のためのパリ案内をはじめ、有料で、通訳、研究、調査、翻訳などを引き受けた。機関誌の「巴里旬報」は予約購読制で、一カ月三部の購読料が六フラン、六カ月で三十五フラン、一年で六十フランだった。金子光晴が松尾邦之助を訪ねたのは、『ねむれ巴里』で述べられている在留邦人の名簿ではなく、この「巴里旬報」の購読者名簿の整理と未納の購読料の取り立てだったと思われる。
 松尾を訪ねた日話はすぐにまとまり、金子は前金として五十フランを受け取った。そこで帰途にポルト・ドルレアンの東側にあるモンスリ公園の近くに貸し部屋を見つけて手付金を払い、間もなく引っ越しをした。
 クラマールを去る二、三日前、金子と三千代は散歩の途中で、疲れた顔のコミエに会った。三千代が日本へ帰ると思っていた彼は、パリへ引っ越すと聞いて、また逢えると喜んだ。立ち話をしている最中に爆音が聞こえて来て、空を見上げると大きな飛行船があらわれて頭上をゆっくり通りすぎた。コミエはそれを見送りながら、「あれを、処女の夢というんです。軍隊では。」といった。
 五月になるとパリでは一斉に花が咲きはじめる。五月一日はミュゲ(鈴蘭)の日で、郊外から摘んできたミュゲの花束を、街の辻々や地下鉄の入口で一斉に売りだす。パリっ児はミュゲを胸に挿したり、小さな花瓶に活けて、可憐な白い花から春の到来を感じる。三千代もミュゲを一束買って鏡の前に飾った。
 新たなアパートからマレショー大通りを東へ少し行くと北側がモンスリ公園で、大通りを挟んで南側には、シテ・ユニヴェルシテールと呼ばれる各国の留学生や研究者に宿舎を提供する建物が並ぶ一角があった。一九二五年に文部大臣アンドレ・オノラの提唱で建設がはじまり、日本館はパリで名を馳せた実業家薩摩治郎八が、三五〇万スランの私財を投じて建設され、大学都市に寄贈されていた。このころはカンボジア館が建設中で、赤く塗られた建物が異彩をはなっていた。 
 今度の部屋は四階にあり、窓からは下の大通りやモンスリ公園が見わたせた。床には小さな六角形の煉瓦が敷きつめられ、十サンチーム硬貨を入れるとガスが一日分使えたが、水道はなかった。壁には南京虫をつぶした跡があって、どうかした拍子に労働者の臭いがした。それでもパリの片隅に住めるだけで、不便な点や不潔さに目をつぶることができた。
 アパートのある建物の隣は果物屋、その隣が八百屋で、さらにその隣が馬肉屋だった。八百屋でアルティショを買ってきて、ガスで沸かした湯で茹でて、葉の根本のやわらかい部分だけをクリームをつけて食べた。はじめてだったが贅沢な味だった。
 金子が松尾から渡された名簿には二百人をこえる日本人が記載されていて、その三分の二ほどが購読料未納になっていた。約束では足代や、途中に休憩したコーヒー代などは、集めた金から差し引くことになっていたが、近いところから初めてみると、集金が容易でないことがすぐに分かった。松尾に勧められて会員になったものの、大方は貧乏暮らしで、訪ねて行っても断られるのが大半だった。なかには脱会するというもの、あるいはこんな仕事をしている金子に同情して、止めてしまえと忠告する者もいた。雑誌をフランス文壇の大家に届ける役もあったが、文学と縁を切ろうとしている金子には、なんの興味もわかなかった。d0238372_11364511.jpg 
 藤田嗣治に会ったのもこの仕事を通してだった。藤田はこの年の一月、一時帰国していた日本から戻り、モンスリ公園の近くに住んでいた。彼を訪ねると、エーテルを嗅いで意識を混濁させ、新しい芸術のヒントを得ようとしていた。そしてうわ言のようなことを口にしては得意げだった。居間のかたわらには、芝居の緞帳のようなものや、日本から持ち帰った小型の神輿などが積まれてあった。
 「彼は、フランス気質がたっぷり滲みこんだ日本人の一人であるが、それまで僕が想像していたフランス気質とはだいぶちがっていて、啓発されることが多かった。パリでがっちり生きてゆくには、あくまで日本人であることであり、フランスかぶれのした日本人などフランス人には何の興味もないという所説も拝聴した。また、そこで僕のしらないいろいろなフランス人に会った。彼が市内の家に転居してからも、僕らはときどき訪ねていった。」(『ねむれ巴里』)
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by monsieurk | 2016-06-30 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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