ムッシュKの日々の便り

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男と女――第四部(11)

 いまパリには千軒を超える日本食の店があるという。一区のサン=タンヌ通りの両側には、和食、ウドン、ラーメン屋などが軒を連ね、昼どきともなると行列ができて、フランス人も多く混じっている。 第一次大戦後の一九一九年、パリで開かれた講和会議に、日本は西園寺公望全権以下総勢百名を超える代表団を送り、バンドーム広場に面したホテル・ブリストルを借り切って仕事に当たった。このなかには料理人もいて、近くのレストランの厨房を借りて、そこで代表団のために日本料理をつくったという。
 金子は自伝の『詩人』でパリ時代を振り返り、「無一物の日本人がパリでできるかぎりのことは、なんでもやってみた。(中略)計画だけで遂に実現にいたらなかったのは、日本式の一膳めし、丼屋、入選画家のアルバム等々だった。」と書いている。このなかの「日本式の一膳めし」の計画というのは、画家の辻元廣が持ちこんだ話が発端だった。
 辻はフランスへ来る前に、半年ほど京都で板前の修業を積んできたといい、ある日金子と三千代の許へ、本格的なちらし寿司をつくって持ってきてくれた。材料はヨーロッパにはない紅生姜、そぼろ、高野豆腐、干瓢などで、大抵はマドレーヌある日本食品の店にあるが、手に入らないものは、マルセィユかベルギーのアントワープの船舶賄いの業者に頼んで、日本船の厨夫長から調達したものだという。辻は、「牡丹屋など、あんな料理とも言えん料理で法外な金をとって、あれでは、日本料理もわややで。ふらんす人はもともと、日本料理のほんまの味知らせたら、すぐ病みつきになるにきまってる。牡丹屋のとかしけない料理食うたら、二度と食いたいとは言わんわ。うちのアメリカの婆さん。わしのつくってやる料理の味おぼえて、わしがいなくなったら、食えんようになる言うて、出てゆきはせんかとはらはらしていよる。」(『ねむれ巴里』)といった。
 彼は絵では食えないので、アメリカ人の老婦人の家に住み込んで、料理を作ったり雑用をしたりして生活していたのである。 辻の話にでてくる「牡丹屋」は十六区のヴィヌーズ通りにあって、旅館と会席料理の仕出しを営んでいた。諏訪旅館や東洋館や「ときわ」などに比べれば後発だった。三千代を交えて、辻のちらし寿司を堪能したあとで、金子の思いつきで、丼物をつくって日本人相手に売り出したら儲かるのではという話になった。
 辻が板前、金子が営業、三千代は接客係り。親子丼や玉子丼、天丼、鰻丼を次々に開発して、在留日本人に売り出す。金子は松尾邦之助の手伝いで在留邦人の名簿を持っており、彼らの多くは西洋の食事になじめずに、白飯を炊いて生卵をかけたり、牛肉を固形の調味料と砂糖で煮てすき焼の代わりにしたり、パンの食べ残しに白ブドー酒を入れてぬか漬けの漬物を作ったりしていた。
 金子と辻がこの話を知り合いの画家たちに話すと、なかには回数券をつくって二か月分なり三か月分を前払いするから、それを資金にぜひ実現してほしいという連中がでてきた。だが店を借り、器物をそろえ、材料の仕入れ先を確保するとなると先立つものは金で、結局この夢は実現せずにしぼんでしまった。ただ器用な辻は金子の分解寸前の靴を修理してくれた。これが唯一の成果だった。
  定期収入がなくなった金子は、新興宗教である大本教のパリ布教支部の西村光月という人物と知り合った。教祖の出口王仁三郎の一代記を絵本にして布教に役立てる案を出し、西村はその絵の幾つかを日本の本部に送ったようだが、色良いよい反応はなく、この金儲けの口もとん挫してしまった。
  三千代も仕事探しに精をだし、パリでは名の知れた伴野商会の女店員の口が決まりかけたが、最後には不採用になった。どうやら金子が大使館の武官から金を詐欺まがいに受け取ったことが噂になっていて、その悪名が影響したようであった。
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by monsieurk | 2016-07-09 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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