ムッシュKの日々の便り

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男と女――第四部(15)

 金子は世間を狭くする一方で、三千代は外へ出れば、誰かの奢りで映画や芝居を観たちレストランでの食事を楽しむことができた。それに彼女の向上心は相変わらず旺盛で、ぎりぎりの生活費から、「ル・モンド」や共産党の機関紙「ユマニテ」を買い、『十月革命』、『パリにおけるレーニン』、『即物主義詩集叢書』などの本をサン・ミシェル大通りの本屋から買ってきて辞書を片手に読んでいた。二人の間には、互いに干渉せず、生きのびることを第一にしようという暗黙の了解ができつつあった。
 金子はこんなことを思った。「―― 二人とも、パリの土になることになるだろう。
 幾度も、僕はそのことを考えた。どちらか一人がのこって、もう一人分の骨を日本へもって帰ることになるかもしれない。骨は別にもってかえってもしかたがないとおもう。持ってかえるとなれば、空鑵のなかに入れた方がいいなどと考える。帰れないということは、彼女の場合はすこしちがっていて、生きてもう一度子供に会いたいという思いが切実で、その話にふれると彼女はなんにも言わずに泣いていた。(中略)朝方など、ベッドの枕にうつ伏せになって泣いていることがよくあった。泣くがままにさせて邪魔しないで、僕は、その横で他のことを考えて、じっと眼をつむっていた。頭がだんだん大雑把になって、考えることも感じることも鈍くなり、所謂、張三李四で事志とたがい、芯から卑俗な小悪党根性が身についてゆくのがわかった。間尺に合わないわずかな金のために、なんでもやる気になっていた。だがそれすらも、よさそうな話はなにもなかった。」(『ねむれ巴里』)
 金子が『ねむれ巴里』で次に物語るエピソードは、彼がどれほど切羽つまった状況にあったかを伝えてる。
 金子は暁星中学時代の同級生である柴崎という男がリヨンにいることを知って、彼を訪ねて幾ばくかの金を借りる算段をした。小さな荷物を一つ持ち、往復の汽車賃と二、三泊するための百フラン札一枚を懐にしてマルセイユ行の夜汽車に乗った。d0238372_9325721.jpgリヨンはパリから四百キロのところにあるフランス第二の都会で、真夜中にリヨン駅に着いた。とりあえず駅でコーヒーを二杯飲み、駅前の部屋貸しのホテルに宿をとった。一泊十二フランだった。
 翌日は十一時過ぎに起きてホテルを出て、アドレスを頼りに山の手にある柴崎の家を訪ねた。玄関に出てきた柴崎は暁星の出身者ではあったが、金子が知っている柴崎とは同姓同名の別人だった。リヨンでは香水工場の職工をしていて、最近同じ職場の若いフランス人女性と結婚したのだという。彼らは親切に食事をご馳走してくれ、金のことは切り出せずにホテルに戻った。
 「あとにも先にも、自殺を考えたのは、生まれてからそのときがはじめてであった。その時の彼女のことは、こちらが心配するまでのことはあるまい。パリにごろごろしている男共はみんな淋しがっている。僕といっしょにいて、とんでもない苦難の巻添えをくうよりも、安定したくらしだけは確保している画家がいくらでもいて、遊ぶがままである。そのなかから気心のわかった、不愉快でないあいてをさがしだすことは、そんなに骨ではない。(中略)そのときも僕は、僕がねているベッドの下で地球がうごいているのを感じた。胸がいっぱいになったが、のどまでつまっているその感情は、非苦ではなくて羽目を外して、世界中がびっくりすつような大笑いの発作の前のような気持であった。それから僕はすこしばかりではあるが、これから着々とすすめてゆこうと思っている計画に、それを決行する勇気が加わってきた。」(『ねむれ巴里』)
着々と進めようとする計画がなにかは不明だが、金子は翌日の朝早起きするとリヨンの目抜き通りへ行き、デパートの二階の文房具売り場で、絵具一式を外套の内ポケットにしのばせると、そのまま出てきた。店員は誰も追ってこなかった。ホテルの部屋へ戻って日本女性を描こうとしたが、盗んできたのは油性絵具で水を含んだ筆にはのらなかった。それでもなんとか三枚の紙に女の姿を描き上げ、買ってくれそうなところを電話帳で調べて持参した。最初はマリア会に属する教会だったが、出てきた神父は花魁姿を見ると頭から拒絶した。そのあとは行きずりの医院、日本の銀行、商社とまわったが、日本人の対応はよけい横柄でけんもほろろだった。
 懐を勘定してみるとパリまでの汽車賃もない。しかたなく夜八時頃にふたたび柴崎の家を訪ねて事情を報告すると、同情したフランス人の妻が四つにたたんだ百フランを差し出して買ってくれた。柴崎夫妻が駅まで見送ってくれ、夜遅い列車でリヨンを発った。
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by monsieurk | 2016-07-21 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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