ムッシュKの日々の便り

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男と女――第五部(1)

 三千代が一人アントワープへ旅立ったのは十一月末である。パリからベルギー方面への汽車は北駅か東駅から出発する。この日、東駅には金子と長谷川青年の二人が見送った。三千代がパリに来てからちょうど一年が経っていた。
 「朝早く、巴里の東停車場から、アントワープ行の列車が出る。巴里ぐせがついて、昼近くより早く起きたことのない小谷〔金子〕と十三子〔三千代〕は、しぶい目をこすりながらメトロで東停車場に着いた。メトロの穴から出て駅前広場は、深い霧が渦巻いていて、駅の大時計が、どんよりしたくちなし色の、大きな首吊りの顔面のように宙づりになって、漂っていた。(中略)十三子が乗り込むなり、八車のベルが鳴り出した。座席をとって窓から顔を出してみると、小谷の姿がない。汽車がゆっくりうごきはじめてから、小谷が遠くから走ってきた。彼は、紙箱に入れたものを片手で前方に差出しながら走ちつづけ、それを、十三子の手にとどかせようとした。あやうく十三子がそれをうけとったとき、汽車は速力を増して、みるみる彼をおき去りいした。紙箱の中をのぞいてみると、ふだんは高価で手の出ない、季節はずれで珍しい大粒の青葡萄が一房はいっていた。この葡萄は小谷のふところをからっぽにしたにいちがいない。明日とはいわず今日の日から、いったい小谷はどうするつもりであろうと、十三子は思った。」(『去年の雪』)
 金子は大枚二十フランを払って買った葡萄の房を窓から渡して彼女を見送ったあと、長谷川と駅前のカフェでコーヒーとクロワッサンの朝食を食べた。離愁が七分、解放感が三分というのが正直な気持だった。
 ダゲール通りのホテルは引き払ってきたので、さっそく宿をさがさなければならなかった。大きな豚革のトランクは三千代が持っていったので、彼はファイバー製のスーツケース一つに荷物をつめ込んで、まだ霧の深い街を歩いた。
 モンパルナスの近くまで来ると、愛慾の孤独と強い執着が入り混じった悲痛な悔恨の情がおそってきた。これからどうして生きていけばよいのか分からなかった。この日は途中で見つけたホテルに部屋をとり、若い長谷川と泊まることにした。夜はソーセージをはさんだパンとシュクルット〔塩漬けのキャベツとソーゼージの煮物〕を買ってきて、部屋で食べた。
 翌朝、長谷川青年と別れて、モンパルナス駅近くにホテルを見つけ、そこにしばらく滞留することにした。ポケットにあるのは二十サンチームの硬貨ばかりで、それでも二、三日の宿代は出そうだった。部屋はシングルベッドが一つ置かれただけのものだったが、一日十五フランという安さがなによりだった。ただ下がコーヒー店のホテルは完全な連れ込み宿で、水道管のまわりの漆喰に穴があり、覗くと隣のベッドが見えた。夜は隣室の音や光景でなかなか眠れなかった。
 アントワープは、首都ブリュッセッルに次ぐベルギー第二の都会である。ベルギーは多言語国家で、南はフランス語を話すワロン地域、北はオランダ語の方言であるフラマン語を共通語とするフランドル地域に分かれ、首都ブリュッセルは両方の言語を用いている。この他にドイツとの国境には少数だがドイツ語を話す人たちもいる。
 アントワープ(地元のフラマン語ではアントウェルペン)はフランドル地方の中心都市で、フランス北東部に源を発し、てベルギーを通ってオランダに入り、やがて北海にそそぐシュヘルド川の右岸に位置している。川幅はここでは四百四十メートルに達し、フランスのマルセイユやル・アーヴル、イギリスのロンドンと並ぶ欧州航路の終着地の一つで、とくに貨物の積み下ろし港としてはヨーロッパ一、二を誇る。
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 アントワープの名前については、巨人アンティゴーンと英雄ブラボーの伝説が伝えられている。アンティゴーヌは附近を通行する船に通行料を課し、それを払わない者はその手を切り落として川に放り捨てた。だがついにローマの戦士ブラボーがアンティゴーンの息の根をとめ、手を切り落として川へ捨てたという。フラマンのAntは手、werpenは投げるという意味で、街の名前はこの伝説に由来するという。アントワープの中心部では、北から南へ、波止場が川沿いに五・六キロにわたって続き、そこには無数の客船や貨物船が係留され、仕揚げのためのクレーンが林立している。
 三千代の乗った汽車が国境を越えたあとの駅で、税関員が乗って来て全員のパスポートを見てまわった。三千代のパスポートも、シンガポールで金子とは別々になっていたので無事に入国を認められた。汽車は昼近くにアントワープ中央駅に着いた。霧はようやく薄れはじめたが、敷石の道路はまだ凍ったままだった。出島に教えられた住所を頼りに、シュヘルド川の河岸にある宮田の事務所を訪ねあてたとき、栗色の薄い外套しか来ていない三千代の身体は寒さで硬直しそうだった。駅からは直線距離で三キロもあった。三階建てのレンガ造りの建物の石段を二段上がって、ガラスに金文字で MIYAKO CO. LTD. と書かれた扉を押すと、なかはストーブの温気でむらかえるようだった。
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by monsieurk | 2016-07-30 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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