フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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男と女――第五部(4)

 ベルギーから戻ってきた出島が金子のいるホテルを探し当てて、アントワープから預かってきた三千代の手紙を渡したのはこのころである。手紙には、こちらはこパリより一段と寒く凌ぎにくいが、船舶賄業の社長は親切で、ベルギー人の青年と机を並べてタイプを打っていること、みなよくしてくれるがここの空気には馴染めない。はやく来てほしいといったことが書かれていた。
 金子にとって、三千代がいなくなったパリにとどまる理由はもはやなかった。一人になってモンパルナスのホテルで虚しく日を送ることがもはや意味をもたず、しかも日本を出てからの大きな疲労が、身体にも心にも大きな黒い油じみのように広がるのを感じた。
 「僕は、この身につけていた一切をぬぎすててしまいたくなって、書物や、ペンばかりでなく、外套までも、ホテルに置いて、からだ一つで寒気のたけだけしい冬のパリを出て、ベルギー行の汽車に乗った。出島やその他のパリのつきあいにも知らせず、従って見送る人もなく、スーツケース一個の元の姿で、ブリュッセルにむかった。(中略)
 ベルギー領に入った時、乗客の荷物しらべがあった。関税を払わなければならないものはなにもなかった。爪哇(ジャワ)でもらった木偶芝居の人形と、セイロンで買った大きな壁掛の更紗も、ひっかからずにすんだ。ブリュッセルのガール〔駅〕の近くのホテルの五階の小さな部屋に入ったが、ポケットには、少々のはした銭が入っているだけで、このベルギーの都会で、どうやって生きるか、まだ考えていなかった。まだと言うよりも、考えまいと心で避けていた。」(『ねむれ巴里』)
 ベルギー到着以後の動向について、金子は自伝的作品である『ねむれ巴里』と『西ひがし』で触れているが、パリ時代にくらべて簡単であり、細部がわからなかった。それを補ってくれるのが、一九九四年に平凡社から刊行された『フランドル遊記 ヴェルレーヌ詩集』である。この「遊記」とヴェルレーヌの詩篇の翻訳については、編者の堀木正路が解説で明らかにしている。
 森三千代の晩年、聞き書きをここみていた堀木は、三千代が亡くなる二カ月前の一九七七年五月、数冊の日記を託された。日記の一部はこれまでに公表され、本書でも参照してきたが、その日記の間に「北欧フラマン・ブラバン日記」と書かれた、茶色の表紙のノートがはさまれていた。これがベルギー時代に記されたと思われる覚書であった。
 『ねむれ巴里』の記述によると、ブリュッセルに着いたとき、金子はたった一人の頼み綱のイヴァン・ルパージュに手紙を書き、それを読んだルパージュが翌日の昼ごろ自動車を運転してホテルに来てくれたことになっている。しかし、『フランドル遊記』では、経緯が違っている。d0238372_10574998.jpg
 「ムッシュウ〔ママ〕・イバン・ルパージュの、ディーガム〔ママ〕の風車小路の七番地に、・・・十一年ぶりでふたたび訪ねてきた私を、マダム・オルガと、二人の娘、フランシン〔ママ〕とアンヌマリーとが迎えた。ムッシュウ〔ママ〕は、パリーへ、煉瓦(フォアイエ)を買いにいって、晩にかえってくるということであつた。二人の娘は、頭髪を北国風に、あぶらでまんなかからカッカリわけている。(中略)
 マダム・・・猫のように円顔で骨の柔らかそうなマダムは、若さがまだ残っていた。少なくとも感情はまだ若さの領域に生きているのである。この十一年間が苛い年月でなかったことを物語っている。しかし、北国的な静居が、彼女の育ちの素直さと教養に培われて、決して、快楽的な分子をあらわさなかった。彼女は茶を子供達に命じながら、大きな薪を暖炉に投げわたした。
 北ヨーロッパの一月は、寒さもひどいが、三時半というと、もう、うすぐらくすなり始める。薪は、オバール色の炎をあげた。燠は、ルビーから、緋びろうどのように変化した。火の粉があがった。」(「ブルッセル市」、『フランドル遊記』所収)
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by monsieurk | 2016-08-08 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)