男と女――第五部(5)
「――あなたは火がお好きですか。とても美しいではありませんか。
マダムは、そう云ってじっと火を眺めている。 二人の子供達もじっとそれをながめている。火がその顔の一面をあかるくして、息ついている。生活は、ここでは少しのうごきもない。落ちつきそのもので、内容こそ新しい無宗教的な家庭であったが、更にふかいところにはエグリス〔教会〕や、市庁(オテルドビル)と同じような、中世期につづいているのであった。
弄馳、流浪、・・・そして反逆のための反逆。アジアからヨーロッパに、さらにどこへ放されてゆくのかあて途もない私の現在とのあいだの生きかたのちがいは又どうであろう。
私は、――家庭という檻をむげに讃嘆するほど自身を引片付けはしない。しかし、このマダムと二人の娘の均衡された生活のしずかさを、呪詛するには。私の気力がなかった。」(同)
その夜パリから戻ったルパージュは、金子が十一年振りに訪ねてきたことを知ると、翌日自ら自動車を運転してやって来た。駅近くのホテルにはエレベーターはなく、以前はすらりとして紳士だった彼はすっかり肥満して、五階まで階段をふうふういいながら上ってきた。
そもそも金子がルパージュを知ったのは、父のもとへて入りしていた骨董商の鈴木幸次郎にくっついて最初のヨーロッパ旅行をしたときだった。鈴木は得意先の一つだったベルギーのルパージュに金子を紹介し、その縁でブリュッセルの郊外ディーゲム(Diegem)にあるルパージュの邸宅のそばの居酒屋の二階に一室を借りて、一年九ケ月をすごした。
ルパージュの祖父は、レオポルド一世がオランダから独立戦争を起こしたとき、それを援けたといい名門で、ディーゲムの区長という名誉職についていた。彼は金子より十二歳年上で、ブリュッセル自由大学を卒業すると、二十七歳のときオルガ・マルガと結婚し、義父が経営する陶磁器製造を手伝い、その経営とオステンドの牡蠣養殖に投資して財をなし、広い果樹園も所有する実業家であった。日本の美術と最初に出会ったのは、十五歳のときに読んだルイ・ゴンスの『日本美術』で、すぐに日本の工芸品の蒐集をはじめた。彼は根付や鍔の蒐集家としてヨーロッパ中に名が知られており、蒔絵、印籠その他の美術工芸についても優れた鑑識眼の持ち主だった。加えて彼自身も絵画や彫刻をよくした。
ルパージュは、関東大震災のあと幾度も手紙を出したが返信がなく、金子は死んだと思っていた。生きてまた会えるとは思ってもみなかった、と再会を喜んでくれた。そして、国立サント・マリ教会の近くに別の宿を探してくるから、ここはすぐに引き払えといって、下りて行った。一時間のしないうちに、ホテルの外からルパージュが大声で呼ぶのが聞こえた。五階まで上がって来るのをためらったらしかった。
サント・マリ教会の近くからディーゲムへ行く郊外電車に乗ることが出でき、その便を考えて、教会の裏手にあるスカラピーク区ロクト通り(rue de l'Hoecht)百十三番地の、野菜と雑貨を売る家の二階の部屋を借りてくれた。その後、魚市場のわきのマルセイユ料理店「マリウス」へ行き、目の不自由な画商のヴォスを交えて昼食をとった。金子の得意な絵を考え、やがて展覧会を開かせることを考えていたのかもしれない。
その晩は、あらためてルパージュ邸に招かれて団欒を味わった。食堂のしきりはかつて金子がプレゼントした印度更紗で、柱に貼った箔縫の「南無阿弥陀仏」も、壁の能面の昔のままだった。ルパージュ家には専属の料理人がいて、フルコースの晩餐を味わいつつ、別れて以後のつもる話を語り合った。金子は結婚して子どもがいること、妻がアントワープの日本人の許で働いていることを明かし、いずれ機会をみて会ってもらうことを約束した。
この日は夜が更けて電車がなくなったため、ルパージュ家の三階の小部屋で寝ることになった。そこは収穫した梨を貯蔵して熟させるための場所で、羽毛の掛布団のベッドに入り、手をのばして棚の上の梨を取って齧ってみると堅くて歯がたたなかった。