ムッシュKの日々の便り

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男と女――第五部(6)

 翌日、ディーゲムを見てまわった。かつて住んでいたカフェは雑貨と牛乳を売る店になっていたが、古い教会の塔も濁った川も変わりはなかった。木靴(サボ)を売る店もテラコッタのパイプを売る店もそのままだった。
この日から週に二度ほどはディーゲムを訪れるようになり、毎週土曜日には晩餐に呼ばれた。ルパージュの屋敷はさながら美術館だった。廊下から屋根裏まで美術品がつまっていた。玄関には現代絵画が飾られ、サロンはなかでも大切な根付と鍔のコレクション、シャム(タイ)の蒔絵が置かれ、ユトリロやカリエールの絵がかかっていた。
食堂には古い中国のサラ、オランダやベルギーのガラス類、昔アンコールワットから持ち帰った石仏の首、そして中世やゴチィックの聖母像があった。庭よりの噴水が見える部屋には、ルパージュがとくに愛好する歌麿をはじめとした浮世絵。二階には、十九世紀ベルギーの画家フェリシアン・ロップスやヴェルボカーベンの絵。ベルギー独立戦争を描いた版画。その一枚の市街戦でピストルを撃つ小さな姿の人物はルパージュの曽祖父だった。二階にある書斎や夫人の部屋も蒐集した美術品があふれていた。ルパージュは日本に関するフランス語と英語の書物を集めて知識を深めていた。
 日本趣味(ジャポニスム)の持ち主に共通するように、以前のルパージュは古い日本を讃美していたが、いまは明治維新以降の近代化を認めるようになっていた。金子との会話も終始日本の西洋化、西洋と日本との比較をめぐるものだった。
 食事に最中も、いま食べているものは日本にもあるか。どう違うか。その他、風景について、女性について、生活様式について質問攻めにした。ルパージュにとって金子は詩人であり、絵をよくし、江戸文化にも通じているインテリだった。同時に金子にとってもルパージュは、長い歴史の上に成立している今日の西洋の文明を知るための恰好の教師だった。彼を通して金子が得た結論は、紙と野菜の日本人に対して、西洋人はどこまでも、獣皮と、石と、鉄で武装された人類であることだった。会話をしてどうしても分かり得ないのは、独学の言葉が不十分なのもさることながら、考え方の根本的な相違があるからにちがいなかった。
 ルパージュ邸での食事は豪華だったが、ロクト通りのホテルでは、下の八百屋から鍋を借りて来て、ストーブで煮物をつくって自炊し、暖をとるストーブの石炭は、バケツをさげて毎日買いに出かけた。こうした生活費はルパージュが貸してくれた。
ルパージュは自ら車を運転して金子を旅に連れ出してくれた。あるひは夜明け前にブリュッセルを出発して、シュヘルド川の上流の街々を訪ねた。フランドルの平野は低い丘陵が多く、風車の羽根がゆっくりまわっていた。ルネという街で昼食をとりつつ、話しはベルギーと日本と風景の比較になった。金子は問われるままに、「ヨーロッパの今までみた自然は、水といえば瀦水池だし、森と云えばブールバールの延長だし、どんなに複雑であってもみんな方程式にはまっています。・・・そこへゆくと日本の自然はむしろ乱雑です。日本人の採る形は、そこから一部分をはなして自分のものにする丈です。従って多分に感傷的で、単純に、情緒的です。・・・日本人はそれだから、不二山を要約して、公約数にして、画くことができるのです。」(「エスコー〔ママ〕をさかのぼる」、『フランドル遊記』所収)これにたいしてルパージュは、「風景論は大変面白い。日本の自然は大体想像がつくようです。」といった。
 パリでは執筆する意欲は完全に失せていたが、こうした刺激もあって、ブリュッセルではまた筆をとる気になった。金子は「スマトラ島」という紀行文を書いて日本に送り、「改造」の四月号に掲載された。この年は他にも九篇のエッセーを書くことになる。
 そして有り余る時間を使って画廊をめぐり、ヒエロニムス・ボス、ピーテル・ブリューゲル、フランス・スナイデルス、ジョルダンスなどを見てまわった。こうした刺激とルパージュの勧めがあったのだろう、金子はふたたび絵筆を執り、ブリュッセルや日本、そして旅の途次目にした中国、東南アジアの風景や人物像を水彩で描きはじめた。d0238372_15164494.jpg 
 こうして溜まった絵を中心にして、ベルギーの四人の画家たちとのグループ展が、二月二十八日から三月二日まで、マルシェ・オ・プーレ通りのライゼン宝石店の二階の画廊「ノ・パントル」で開かれた。この裏にはルパージュの尽力があった。金子はこの展覧会について、『ねむれ巴里』のなかでこう述べている。
 「僕はブリュッセルにこもって、水彩画を画き、二ケ月程して数が揃うと、テニエルスのながれをひいたフランドルの画家と、スコットランドのメルヘン風な風景画家と三人〔実際は四人〕で展覧会をひらいた。ルパさんの肝煎りで、三四十枚ほどの小さな画だが、ほとんど売るというよりも、押しつけて買わせる労をとってくれた。」(『ねむれ巴里』)
 金子の息子の森乾が、勤務先の早稲田大学の在外研究員として一九九九年に、パリに滞在した折、当時九十四歳のルパージュの未亡人を訪ねて、この展覧会のカタログと新聞評の切り抜き、大切な思い出として保存されてきた金子の水彩画、それに金子と三千代がルパージュに宛てた手紙をみせられた。
 カタログによれば、グループ展に出品したのは金子の他は、ジャック・ローディ、フェルナン・レイ、アメデ・リナンで、金子は三十枚の水彩画と四点のデッサンを出品していた。水彩画は三点の肖像、二点のアントワープ風景、十点の日本風景、さらには中国、インドネシア、ジャワ島などである。そしてルパージュ家に残された絵とカタログの題名が一致するものが多かったという。出展作のいくつかは宝飾業者や靴下製造業者が買ってくれたが、売れ残ったものはルパージュ自身が買い取って、代金を金子にあたえたのではないかと推測される。d0238372_1521189.jpg 
 保存されていた新聞評は四紙で、その一つ「ラ・ガゼット」紙は――
 「このグループ展で最良の作品は金子光晴の画である。彼は数カ月前からブリュッセルに滞在している。
 この日本の画家は、パリのモンパルナスにいる彼と同国人の画家たちと何の共通性ももたない。モンパルナスの日本の画家たちは、フランス絵画を模倣することで、己が独創性を失おうとしている。ところが金子氏はブリュッセル、アントワープの風景、ベルギー人の肖像画を描く時にすら、日本の版画の繊細なタッチ、色彩の美しさを保ちつづける。彼は我国では無名の存在にすぎなかったが、いまや金子は忘れられぬ名となった。」(「金子光晴のブリュッセルの画」、森乾『父・金子光晴伝 夜の果てへの旅』所収)
 森乾は、この新聞評は過分な褒め言葉であり、画廊が提灯持ちの記事を書くように新聞社に働きかけた結果ではないかと推測している。金子の絵はしょせん詩人の余技であり、他の三人も絵も平凡なものであった。
 ただこの展覧会を開いたことは、金子に勇気をあたえた。彼はアントワープの三千代に宛てて手紙を書いた。
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by monsieurk | 2016-08-14 22:32 | 芸術 | Trackback(1) | Comments(0)
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