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ムッシュKの日々の便り

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男と女――第五部(8)

 三千代は二週間ほどするとまた訪ねてきて、今度は金子がついてアントワープへ出かけた。三千代は彼を従兄弟と紹介していて、宮田の事務所を訪ねて、これまで世話になった礼を述べた。彼は金子のために事務所の近くのホテルに部屋をとってくれた。
 アントワープ滞在中、金子がまず訪れたのは十六世紀に建てられたルネサンス様式の市庁舎で、前の広場には伝説のブラボーの像が建っていた。三千代が案内した日本人を煙にまいたというノートルダム大聖堂は、一三五二年から百七十年をかけて建造されたベルギー第一の大きさを誇るゴシック様式の教会で、内陣ではルーベンスの最高傑作といわれる祭壇画《キリスト昇架》、《キリスト降架》、《聖母被昇天》の三副対を観ることができた。
 アントワープは、フランツ・ハルス、ルーベンス、ファン・ダイクなどフランドル派の画家を産んだ芸術の街であり、王立美術館で彼らの作品をじっくり味わった。
 街の中心にはヨーロッパ最古の印刷所の一つ「プランタン・モレトゥス博物館」があり、印刷に関する当時の文献が陳列されていた。書籍の販売所も当時のままで、廻廊をめぐる小部屋には古い木製の活字や、印刷された最古の聖書も並べられていた。
 これらが伝統のアントワープとすれば、いまの街の象徴は波止場の後継であり、停泊する貨客船だった。船は、イギリスの木綿、南米の麦粉、北米の材木など世界各地から荷を運んできたし、ここからは鉄材、機械類が運び出された。そのため沖中士たちが昼夜を問わず船をかこんで働いていた。そして女たちは河沿いのバーで水夫たちを待ち受けていた。金子がアントワープで描いた水彩画が残っているが、その一枚には大きなスクリーンにブルーフィルムを映写し、その前で三組の男女が床に寝そべり、あるいは椅子に座って抱き合っている姿が影絵のように描かれている。三千代はこうした雰囲気のなかで暮らしてきたのだった。
 海岸通りを離れた街の中心の目抜き通りには、百貨店やカジノ、ダンスホールがあった。そして中央駅の裏手にはヨーロッパでも有数の動物園があった。「安土府」には、三千代の日記が引用されている。二人はそれぞれ日記をつけていたのであろう。
 「動物はみんなしばられたり、オリに入れられたりしていました。だが、彼らは、まだ幸福でした。なぜって、人間はオリへ入れられたうえ、たべものもないのに、動物はまずその方は安心です。動物は、出勤しているせいでしょう。
 (中略)――孔雀ほどつまらない鳥はいない。まさに、輸出向の九谷焼茶道具(ティーセット)です。みると、わたしはこわくなる。皇室の戸籍をよくしっている奥さんのように嫌わしいのです。(中略)
 斑馬。罪人のように、シマのシャツを着ています。しかし罪人ではない。かあいそうに、牢格子の棒が染りついたのでしょうか。いいえ、格子にむこうであいびきをするとき、姿をみせたり、かくしたりするのに便宜なのです。
 狐、スカンク、蛇、かわうそ、鰐・・・・毛皮用、カバン用、その他で人類に有用な動物です。
 資本家――二銭で一円のおつり、――それは人類に有害な動物です。」(「安土府」、『フランドル遊記』所収)
 金子が三千代に魅せられてきたのは、この日記に見られるような筋の通った物の見方、そのセンスだった。金子が自分の覚書に、三千代の日記の一節を引用したのもそのためだった。
by monsieurk | 2016-08-20 22:30 | 芸術
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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