ムッシュKの日々の便り

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男と女――第五部(9)

 この引用に続いて、金子はアントワープ中華街について書いている。河岸や裏通りには中華料理の店がかたまっている一角があったが、パリやロンドンとは違った純粋の中国の味だったから、西洋人は近づかなかった。行ってみると狭い窓には小鳥の籠や、女の古い衣裳などが吊るされていて、麻雀をかき混ぜる音が聞こえた。
 「欧州大戦〔第一次大戦〕以来。支那人〔ママ〕と、日本人の地盤がアントワープに築かれ、脱走船員や、ばくちうちが巣食っている。・・・油傘の支那女が濡れたケイ〔河岸〕の石ばたを、かながしらをぶらさげて、下駄を曳ずって歩いている。
 日本は、世界に宿分として移民してゆくが、支那はそのいたるところを「支那」に変えてゆく。(中略)
 支那は、それでいて、経済を最後に占領するだろう。日本人は、ここのアントワープにいる人に於いても、一般の殖民地人種と同じように――日露戦争時代の軍国的侵略思想によって、ノスタルジアが加わって、日本独尊の僻見にわずらわされている。彼らは、二十年居て、猶、味噌汁と、茶漬をすてない。――彼らは、淫売以外に、西洋人のあいだへ入ってゆかないで、日本人同志で、流しものになったように淋しく生活している。
 ――戦わなくばいけない。支那をこらし、アメリカをこらす時だ!
 (そして、我々も助かるのだ!)
 日本は、アントワープ港から夥しい鉄材を積込んだ。支那人は、ブリュッセルの大学生が二百人、日本の大使館の前で中華民国万歳を三唱し、アントワープの支那料理「中華楼酒楼」は日本人のとくいを拒絶した。
 日本の旧式な、露骨な侵略主義は、ヨーロッパのどこでも、好意をもたれてはいない。」(「安土府」、『フランドル遊記』所収)
 政治にあえて関心を持とうとしなかった金子だったが、中国人の反日感情は東南アジアを旅行中も肌身で感じていた。前年十一月、三千代がアントワープにきたとき、日本では浜口雄幸首相が東京駅で狙撃され重傷を負った。そして金子がアントワープに来たこの三月、日本では桜会の一部将校や思想家の大川周明たちが軍事クーデタで、宇垣内閣の樹立をはかって未遂におわる事件があった。
 金子は一週間ほどいてブリュッセルに戻った。離婚手続きをしたあとも、三千代はブリュッセルにやってきて、二人で週末にルパージュ邸へ招かれるのは変わりはなかった。
 宮田には金子が従兄でないのはすぐ分かった。例の銃撃騒動以来三千代に惹かれていた彼を悩ましたが、女が自分の元を逃げ出したという噂が広がるのを抑えるために、手がけている商売用のチンチラ兎の資料収集に、彼女をブリュッセル駐在ということにした。都商会は事業を拡大して、船舶賄のチャンドラー部、鉄を中心とした輸出の貿易部、それに積荷の集荷と輸送担当のチャータリング部の三本柱が確立しつつあるのは事実だった。
 こうして三千代は宮田の好意で給料をもらいつつ、ブリュッセルで生活することになった。金子は相変わらず青物屋の二階にいたが、宮田の手前ここで同居することはできず、金子が探したプラス・リッツのカフェ兼手ホテルの一室に住むことにした。金子は雑誌へ送る原稿をときどき書くなど精神的にも物質的に多少の余裕が生まれていた。
 三千代は、パリ東部のヴァンセンヌで開かれるパリ国際殖民地博覧会で働くことが決まった。博覧会は主にフランスの植民地インドシナやアフリカの人びと、アンコールワットの遺跡、そして物産を展示・紹介するものだった。首相ジャン・ショレスの提唱で開かれ、明らかに西洋が植民地を文明化したかを示す意図があった。会期は五月から十一月までで、主催者の一人が宮田の知人であり、そのコネが大きかった。
 三千代は八月早々、パリに出かけていき、かつて住んだダゲール通りの南にあるポニエー通り(現ランクール通り)三十二番地のペンションを借りて、そこから博覧会会場へ通った。
 三千代がパリに発った二日後、金子はルパージュとともにアントワープへ行った。この旅行の目的がなんであったかは不明だが、その後間もなくして金子もパリへ向かった。汽車は途中シャンティの森を通ったが、真夏の光を浴びた森の美しさが目についた。展覧会で得た金がまだ懐にあり、心の余裕がその印象を一層強きしたのかもしれなかった。
 パリでは三千代のペンションに泊まり、隣室のロシア人の学生がバラライカを弾くのが聞こえた。夜はモンパルナスのクーポールやドームへ足を運び、三千代の友だちのアイーシャにも会った。またかつての生活が戻ったようでもあった。
 上海で別れた画家の宇留河泰呂に路上で偶然出会い、出島から戸田海笛が病死したことなどを聞いた。しばらくするとルパージュが博覧会見物に出かけてきて、一緒に三千代のいるスタンドを訪ねた。三週間ほどで金子はブリュッセルに帰り、王立サント・マリー教会の丸屋根が見えるラ・ポスト(郵便局)通り一八三番地のホテルに部屋を探した。
 三千代は八月一杯で博覧会の仕事をやめてブリュッセルに戻ってくると、二人はヴェル・ボシュカーヴェン(Ver Bochkaven)という、画家の名前のついた通りの二十三番地の洗濯屋の二階に部屋を借りてまた同棲生活をはじめた。
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by monsieurk | 2016-08-23 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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