フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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男と女――第五部(10)

 パリから帰った三千代が金子とは別に住んだことは確かだが、以前のリッツ広場の宿に戻ったかどうかは不明である。宿は別々でも、二人は連れだってよく市内や郊外を散策した。よく行くコースの一つは、市の東側にあるローマの城砦風の聖セルベ教会からジョザファ公園までで、公園には以前に翻訳したエミール・ヴェルアーランの胸像があった。また公園の近くには光栄の浴場があり、一風呂浴びたあと石鹸箱をもってカフェで休息した。
 九月の末には、テルヴューレンの森に二人で出かけた。三千代がはじめてアントワープから出て来た日に、ルパージュの車でめぐって以来で、森には落葉が散り敷いていた。突然雷雨が来て、村のカフェに逃げ込んだ。その後、古びた寺院の囲いのなかの墓地をぬけると、雨に濡れて眼病のようになった、白く塗られたキリスト像があった。
 「――愛情の見本(サンプル)だよ。これが・・・
 ――白っ子だわネ。・・・・ミチヨは、誰にでも愛されますよう。愛されずともいつ迄も美しくありますように。」(「ブリュッセル市」、『フランドル遊記』所収)
 これが彼女を自力で守ってやれない金子の本心だった。
 二人は十一月のはじめ、ブリュッセルの北側のサンジョス区デル・ボカーヴェン(Ver Bochkaven)通りの洗濯屋の四階に部屋を借りて一緒に住みはじめた。その後まもなくして、ブラバン地方のビーセル城を訪れた。以前に来たときはルパージュの車だったが、今度は電車を乗り継ぎ、終点からバスに乗ってビーセルの街に着いた。教会前のカフェで、ベルギー名物の生玉葱と鰊をはさんだパンを食べ、コーヒを飲んで腹ごしらえをして、城に向かった。だが城に入る道はどこも鎖でふさがれて近づくことができなかった。外堀を泳ぐ白鳥の姿がみえた。それを見ながら話をした。
 「――美くしい。しずかネ。
 ――美くしい。しずかだ。醜いものは一つもない。何故だろう。戦は醜いものを皆、亡ぼすためのものだからだ。・・・時によれば、敵も、味方も、それが醜いものはみんななくなって、夫(それ)自身の存在も亡びてしまうことだってあるのである。・・・そして、こうして、城だけが残っている。・・・然し、亡ぼさなければならない。敵! 敵! 敵! !!
醜いもの。――国、家、社会、道徳、宗教、・・・すべての肉体をきたなくするもの、ありかすをのこすもの、打倒軍閥、打倒、帝国主義侵略主義的国家、・・・資本主義産業主義的組織――おお、併せて、集産的共産主義打倒である。
 ――わかってる。あなたはそして、Xを仮想敵国にしている。
 私は、黙って、ビールセル〔ママ〕城をみながら熟考していた。それはそうかもしれない。私のからだから跳返してくる反逆は、Xに対する嫉妬兆戦かもしれない。いや、夫(それ)はしれないどころか、明らかな事実だ。
 ――駄目!! あんたは、戦闘力がない。砲弾が欠乏している。
 ――・・・・・・。
 ――駄目。あんたは若駒(プーレン)の外套も買えない。ダンテルのローブ〔レースの服〕も買ってくれる力がない。
 ――君は、それでXへかえってゆくのか。
 ――おお、妾(わたし)の若い日はどうなる。
 私は彼女の、靴下と猿股のあいだからくびれ出た、貝釦(かいボタン)のように眩耀(クラクラ)する肉に、接吻した。(中略)
 ――戦争だ!戦争だ!
 ――勝たなくっちゃ・・・。
 ――そうだ。勝たなくっちゃいけない。
 ――大丈夫?
 ――砲弾は一つもない。
 ――では妾(わたし)Xの所へかえるわ。
 ――行き給え。陣門で取りかえしてやる。
 冬の寒風の林のなかで、ミチヨの唇が、鮮魚のように、おどっていた。」(「ビールセル城」、『フランドル遊記』所収)
  Xが土方定一を指すのはいうまでもない。三千代は海外放浪のあいだ、土方のことを忘れたことはなかったが、シンガポール以来手紙を送ったことはなく、彼が前年一九三〇年からドイツに留学しているのを知らなかった。そして彼女はさまざまな男と交際するうちに、自分の魅力を活かして生活する術をおぼえるまでにたくましくなっていた。
 息子の森乾は母森三千代について、「この時、物質面の貧困と闘っていただけではなかった。金子光晴という男をはじめとする、さまざまな男たち、あるいは男という存在一般と対峙し、たえざる精神的緊張にたえ、転覆の危機を乗りこえるための闘争を続けていたのであった。そして〈男になろうと努力〉するようになった時に、彼女は数々の男たちとの対峙から自由になり、男とか女とかの性をこえた〈人間〉となり、人間としての自我の確立に成功した」(「森三千代の文学と東南アジア」)と述べている。
 金子は、三千代が「じぶんからふくら脛の鶏のささ身のような上肉を惜し気もなく人にふるまってきた」(『ねむれ巴里』)のであり、それで人間的に成長し、女として輝く存在になっていくのを認めざるをえなかった。そしてこれは彼女が自分から次第に遠ざかっていくことを意味した


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by monsieurk | 2016-08-26 23:16 | 芸術 | Trackback | Comments(0)