ムッシュKの日々の便り

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男と女――第六部(1)

 照国丸は香港にも上海にも寄港せずに、関門海峡を通過して予定より三日早く神戸に着いた。悪化する一方の日中関係が原因だった。
 上海では四月二十九日に朝鮮人の尹奉吉が天長節の祝賀会場で爆弾を投げ、上海派遣軍司令長官の白川義則大将、第三艦隊司令長官野村吉三郎中将、駐華公使重光葵らが負傷、白川は翌月死亡する事件が起こっていた。このため照国丸は、上海では呉淞(ウースン)から黄浦江に入り、そこで民間の在留邦人を収容して帰ることになった。市内では海軍陸戦隊と中国の十九路軍との戦闘があり、銃声が船にも聞こえてきた。船客が上陸することは一切禁止された。
 国内では五月十五日に、陸海軍の青年将校や士官学校生が首相官邸などを襲撃して犬養毅を射殺する、いわゆる「五・一五事件」が起こり、翌日内閣は総辞職した。金子はこうした情況のなか、三年半ぶりに帰国したのだった。
 日本郵船から船客の身寄りにはあらかじめ電報で入港の日時を知らせるので、神戸の岸壁には大勢の人たちが集まっていた。三千代が宇治山田にまだいるのなら出迎えに来ているかも知れないと思い、デッキから一当たり探したが姿は見えなかった。
 タラップがつけられると、新聞記者やカメラマンが上がってきて、一等のサロンに流れ込んだ。チャップリンを取材するためだった。混乱がやりすごした金子は、スールケースと二、三の小さな包を持ってデッキに出ると、三千代の実弟の義文があらわれ、荷物をもって税関まで運んでくれた。久闊を叙し、近くの食堂で簡単な食事をしながら三千代の消息を尋ねると、前の週に東京へ一人で発ったということだった。三千代は帰国したとき男とは一緒ではなく、郵船からの連絡で同じように迎えに来た弟の彼と二人ですぐ山田に帰り、県立日赤病院に入院していた乾につきっきりで看病をした。乾はなにか食べると苦しんで、コーヒー色をしたものを吐きつづけ、これはもうだめだと思うことが何べんかあった。だが三千代が寝食も忘れて世話をした甲斐があって、いまはもう命の心配はなくなり、それを見届けた彼女は、先週一人で東京へ発ったということだった。金子と義文は大阪へ出て、上本町から近鉄に乗って宇治山田へ向かった。
 義父の森幹三郎が昔から住んでいる家は、伊勢神宮の外宮に近く、岩渕町の明治小学校の運動場と塀を接していた。乾はこの春この小学校の一年生になっていた。家の入り、箪笥階段を二階に上って、義理の父母たちに挨拶をしていると、絣の着物に袴をつけ、足袋を履いた正装の乾が金子の前に坐って、「お父さま。久々ぶりでございました。ながの道中、おかわりもなく、御苦労さまでございました」と、教えられた通りの挨拶をした。それでも金子が両手をだすと、すこしはにかんで叔母たちの方をうかがったが、彼女たちに促されて膝の上に乗ってきた。病後で身体が軽かった。
 このあと、彼らは駅前の宇仁館という唯一の西洋料理屋へ行って、乾はハヤシライスを食べ、ソーダ水を飲んでご満悦だった。その席で、実弟が姉からあずかったといって三千代の置き手紙を差し出した。
 「子供は幸いよくなりました。彼は、私をよびよせてくれたのです。私も、命をかけて看病しました。もう大丈夫です。ご安心ください。これからすぐ東京へ行って、じぶんの仕事の根拠をつくります。会ってゆきたいけど、一日でも心がいそぐのです。この手紙をみたら、あなたもきて下さい。もうすこし準備ができるまで、もう半歳、子供を父にあずかってもらいます。固い父ですが、話のわからない父ではありません。それから、船中の人は、神戸へ着くと出迎えの者からじぶんの家の破産をきき、すべてを船中だけのことにして消えました。策略ではなさそうです。あれはあれでおもしろい男です。では。」(「世界の鼻唄」、『西ひがし』所収)とあった。
 上京した三千代は、なによりも部屋を探さなくてはならなかったが、手がかりはなく、金子の実弟の大鹿卓に相談した。大鹿は実母のりようとも相談の上で、新宿二丁目のアパートを紹介してくれた。三千代は二階の一部屋を借りて、住所を宇治山田の実家に知らせた。
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by monsieurk | 2016-09-07 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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