フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30

男と女――第六部(3)

  一週間あまり経って、近くに出る射的場で撃ち落とした煙草のゴールデンバットをみやげに、やっと中華料理店の横丁の狭い道を入った。
  「アパートの入口は、料理屋の裏口の方にあった。番号のついた下駄箱があるのに、狭い土間には、女の厚草履や、靴が入り乱れてぬぎすててあった。空いている箱に靴を入れて僕は、二階部屋の番号をよみながら、ちょっとのあいだためらった末に、扉を一つ、二つ、かるこ叩いた。返事がなかったので、すこしためらっていると、やがて人のいる気配がして扉が開き、彼女の顔があらわれた。
  「ああ、やっと。伊勢からはもっとはやくくるようなこと言ってきていたので、待っていたけど・・・」
  と、彼女としては、おもった通りのことを言った。
  「それがね。早く着いてはいたにはいたのだけど、まず、じぶんの居所を決めてからとおもって、まごまごしていたのさ。ああ。いまではもう決った。太宗寺のすぐ横だから、ここからは、目と鼻の先だ」
  部屋に入ると、冷えあがるつめたさであった。十銭をさし込むと、ガスの火が点いた。貧乏くさいが、日本らしくて、ふしぎなことにそれがなつかしかった。
  「手紙でよんだが、金持の息子は、港で別れて、それっきりか?」
  「気にしていたのね。そうではないかとおもった。・・・それよりも、坊主の病気がたいへんだったのよ」
  しけった靴下をむいで、瓦斯の火にあてると奇妙な臭気を立てて部屋じゅうにこもった。そして女が一人一晩ねていた匂いと濃厚にまじりあって、男と女のあいだで忘れていたものが不意に戻ってきた。まだ暖かいシングルベッドの裾の方に靠れて手さぐりしてみた。しぜんにからだが馴れた組合せになり、熱っぽいベッドに入ってから、しばらくは久闊を感じあい、なかでぬいだ下着や靴下が、ベッドの外へ放り出された。
  「帰ってから、彼とは会っていないのか」
 そのことがなによりも僕の方でもわかっていながらの、毛糸玉にじゃれつく猫のような痛痒いたのしみなのであった。むろん、その彼は、日本を出るときの彼のことであった。それにくらべると富豪の息子のほうは、格別のことはなかった。」(「腫物だらけな新宿」、『鳥は巣に』所収)
 三千代は上京後しばらくして、一度土方定一と会った。新宿駅で待ち合わせ、喫茶店で話をしたが、このときはじめて土方がドイツに留学したことを知らされて驚いた。たが彼はドイツにいったすぐに結核にかかり帰国し、このことで三千代とのことは駄目になったとあきらめたと言った。話をしていると、二人のいる世界が大きく隔たってしまったことをいやでも気づかされた。そしてこれを最後に二人は二度と会うことはなく、土方は翌年一月、齋藤とみという女性と結婚する。
 三千代のなかには、海外を放浪している間も胸に燃やし続けた一途な思いは、いったい何だったのか。パリ行を持ち出されて、土方から離れ、金子に戻っていったことは、三千代にとって、真実に生きることを放棄する思いだった。気の弱さからくる現実との妥協。気の弱さゆえの安きにつく道を選んだことが、ずっと彼女の心をむしばんできた。そして何より、新しい道を歩もうとしていた土方への共感と恋情。それが終わったのである。
[PR]
トラックバックURL : http://monsieurk.exblog.jp/tb/23480916
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
by monsieurk | 2016-09-13 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)