フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30

男と女――第六部(9)

 二人は急速に愛し合うようになり、食事やダンスに一緒に出かけ、熱海にも行ってお宮の松の句碑の前で写真を撮ったりした。鈕先銘は妻を国に返し、二週間後にフランスへ行く予定も延期する。
 ダンスホールに踊りに行った夜、彼は三千代をアパートまで送ってくる。小説ではその場面は次のように描かれている。
 「文代が自動車を下りると、剣鳴もつゞいて下りた。
 ――部屋まで送つて下さいますの。
 ――お別れですから。
 ――のどが乾きましたわ。一寸まつて。
 彼女は、戸を下ろした街のなかに、都合よくまだ起きてゐる果物屋の店に走つていつた。果物の包みを抱えた彼女を先に立てゝ二人は部屋に入つた。すると柳剣鳴はいつのまに手に入れたものか、レーンコートの両方のポケットから一本づつビールの罎を出してテーブルの上に置いた。(中略)
 ――僕は四時までお邪魔してゐて、一番の電車でかへります。
 ――私たち、
 文代は言ひかけて狼狽して興奮を抑へようとしてゐるのを彼はぐつと眼でとらへた。
 ――お知り合ひになるのがおそすぎたのですわ。
 彼はじつとみつめてゐたが、いきなり近かよつて接吻した。彼女の夜會服の肩がはづれた。彼はつるつるしたまるい肩にもう一度接吻した。
 彼女はからだのなかで荒れ狂つていた血が、ふと静かに流れ出すとはじめて別離の思ひがはつきりしてきた。男の腕をゆつくりと彼女は自分のからだからはなして、少し身をづらせた。もう彼女は、自分の思出のなかで生きはじめてゐるのを意識した。一つの戀の冒険がすぎたのだ。二三日して行つてしまつて、もう再び會ふこともないこの男と何の約束もすまい。朝までもう二時間。子守歌のやうならちもない話をする。
 だが、剣鳴は病人のやうに眞つ青だつた。大きな眼が光つてゐた。彼の額に亂れた毛がかゝつてゐた。
 ――苦しまないでね。あなたは、なんの責任もないのよ。
 と、彼女は言つた。
 ――僕、妻と離婚します。
 文代はそれを否定しようとすると、剣鳴は、荘錦翼の父が先達て満州國に國籍をうつしてしまひ、また、彼女の弟が満州國の軍人になつてしまつた、それは、中華の軍人である剣鳴にとつては、充分に困つた問題で、離婚する理由があるのだと言つた。
 ――だつて、荘さんは、
 と言ひかけて、文代は沈黙した。
 ――私は日本の女よ。
 しばらくして、冷やゝかに彼女は言つた。
 ――それはわかつてゐます。しかし、僕はあなたと結婚します。
 ――當面した事實の重大さに、文代はひしひしと壓された。譫言のやうに、うつろな目で云ひつゞけた。
 ――そんなこと考へないことにしませうね。
 朝になつて、あなたは、その扉からいつておしまひになる。左様ならと言つて。あなたを愛したことを私は死ぬまで思ひ出してゐますわ。それでいゝのですわ。
 ――あなたのそこ決心をひるがへすまで僕は出發をのばしますよ。
 文代は、部屋を出たついでに階下へ下りて、脱ぎすてた彼の大きな靴を彼女の下駄箱にしまつて、明日の朝、人の目につかないやうにその靴の上にスリッパを乗せた。」(『柳剣鳴』)
 性格的に陽性の二人は相性がよく、鈕先銘は真剣の三千代との結婚を考えた。彼は、「今から三年後に必ず迎えに来ます。中日の戦争は、きっと避けられない。僕はその時、攻めて来て、この東京の城下の誓いをさせてみせる。その条件として、君を出せという」(「新宿の雨降る」)と言いながら帰国し、やがてフランスへ留学した。
三千代はフランスの鈕先銘に宛てて幾通も手紙を出すが、日中戦争によって二人は隔てられ、再会を果たすのは十五年後のことである。
 三千代の体験した恋愛を描いた小説が雑誌に発表されたのは一九三四年(昭和九年)のことで、当然金子は原稿を読んで、添削のアドヴァイスをしたはずである。ここにも二人が築きあげた、世間の常識とは異なる関係をうかがうことができる。
 三千代の新宿にあるアパートに、すぐ下の妹はる子が乾をつれてきたのはこのころである。書くものが売れはじめていた三千代は忙しく、乾の面倒はもっぱらはる子がみた。金子は竹田屋から新宿アパートに出かけていって、ときどきステーキを焼いたりした。金は三千代の稼ぎだったと思われる。
[PR]
トラックバックURL : http://monsieurk.exblog.jp/tb/23526437
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
by monsieurk | 2016-10-02 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)