フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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男と女――第六部(10)

 一九三三年(昭和八年)三月、実弟の大鹿卓が、詩人の神戸雄一、太宰治、今官一、評論の古谷綱武たちと、同人雑誌「海豹」を創刊した。「新進評論家としてうり出してきた古谷綱武から、あたらしい文学とか、文壇とかいうものの空気を、はじめて教えられた。僕にもやっと当時の日本の文学界の動静がわかりはじめ、――とても、僕らの手におえないものだ、ということが納得がいった。」(『詩人』)
 そんな金子のもとに、国吉真善という名前の人から手紙が届いたのは六月である。手紙は、「琉球料理を味わう会」の案内状で、佐藤惣之助の「是非きてくれ」という添え書きが入っていた。国吉が以前から北千住で泡盛屋を開いていて、沖縄から直送の泡盛を飲ませることは知っていた。佐藤は金子が下戸であるのが分かっており、その彼がわざわざ誘うのだから、単なる飲み会ではないことは推察がついた。それでもまだ疲れの抜けきらない身で、佐藤の顔をみるだけに北千住まで出かけて行くのは面倒だった。三千代も、「私も、どっちでもいいですよ。泡盛というものは、なじみがないし、強いそうだからひどくよったりするとみっともないし」(『鳥は巣に』)というので、一度は欠席と決めた。だが当日の六月二十八日の夜になって気がかわって、三千代と二人で出かけた。
 目指す泡盛屋はすぐに分かった。二階の座敷には詩に関係する若い人たちが座って、部屋のまんなかには背の低い泡盛の甕がすえられ、二、三時間もたたないうちに参加者たちは舌がもつれ、立ち上がるとひらふらするほど酔っぱらっていた。そのなかで琉球の詩人伊波南哲が蛇皮線を弾いて、郷土の哀調をおびた歌を披露した。
 伊波は名を知られはじめていた人で、金子見知っていた。彼の蛇皮線にあわせて、山之口貘が立ち上がると口笛をふきながら踊った。手や足のさばきの小気味よい踊りだった。そのあと山之口は金子のそばにきて、田舎の中学校で詩を書いていたときから金子の『こがね蟲』のファンだと、自己紹介をした。これは金子にとっても意外だった。
 沖縄那覇生まれの山之口はこのとき三十歳で、金子より九歳年下だった。d0238372_1753863.jpg 沖縄にいたときから詩や絵を発表し、十九歳のとき一度上京して日本美術学校や本郷絵画研究所で学ぶが、約束の父から送金がなく友人の下宿を転々とした。翌一九二三年、関東大震災にあい、罹災者恩典で帰郷した。そして二年後、ふたたび上京したが停職はなく、公園や駅のベンチ、土管、キャバレーのボイラー室等に寝泊まりして放浪生活をつづけた。そうしたい中なかで詩を書き、最初の詩集『思辯の苑』を出した。
 「琉球料理を味わう会」があったころ、山之口は両国にある鍼灸医学研究所の通信事務の仕事をしながら研究所が経営する医学校で鍼灸を学び、佐藤という在日朝鮮人の校長の好意で学校の水の漏る地下室にハンモックをつって暮らしていた。
 金子はすぐに純朴な彼を気に入った。山之口は竹田屋を訪ねたいといい、金子は承諾した。そして彼は約束通り、翌週の水曜日の午後に金子を訪ねてきた。
 「その時はまだ、金銭に換える仕事らしい仕事を持っていなかった僕は、この若者を歓待すべき入用の費用をもっていなかったので、近所の質屋にゆき、そこの土間で、はいている礼装用のふとい棒縞のズボンと、すでに入っているありきたりのスボンとをいれかえその差額をもって宿に帰り、けげんな顔で上下をながめている彼をともなって、当時電車通りにあった白十字という家で、一人前一円五十銭也の定食をおごった。そんなことは、ほんの一例で、僕の人生は、考えてみると、はじめからそんなやりくりだらけである。貘さんは、一言一言、ゆっくりと、彼がうそを言わないとは言わないが、そのうそさえも、肌身に沁みて、しっくりと語るので、その調子にうながされて、こちらもつい、本音に似た返事をしてしまい、そのあとで、引出さなくてもいいじぶんのボロを引出して、始末に困るといった気持になるのであった。彼が若い身空で抱いているものは、貧乏と誠実であった。」
 山之口貘の記憶によれば、「かれはそのとき、一冊の大学ノートを、ぼくに見せた。それが『鮫』という長い長い詩で、一字一句、繊細な楷書でノートを埋めつくしていたのである」(『金子光晴詩集』解説)という。
 二人は互の住まいを行き来したが、山之口は金子が訪ねた日のことを、次のように書いている。
 「当時のぼくは、本所両国駅前のビルディングの空室に住んでいたのであるが、その空室に、ぼくのことを訪ねて来た金子光晴は、フランス帰りの人のようには到底おもえなかったほど、へんてこな恰好をしているのに、ぼくはおどろいたのである。そのときのふたりは、別に、詩の話などするでもなく、エスキャールという近所の喫茶店で、珈琲をのんだにすぎなかった。」(同)
 へんてこな恰好というのは、その日は雨で、金子は破れ傘をさし、ちびた下駄を履き、着物の裾をまくりあげながら駅の階段を上って行く後ろ姿をさしたものである。
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by monsieurk | 2016-10-05 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)