フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30

男と女――第六部(11)

 こうして山之口貘との交友がはじまって間もなく、帰国直後に上京してから一年ほど住み暮らした竹田屋を出て、一時は奥村五十嵐がおり、女給たちも多いアパートへ移り、次いで太宗寺の墓地が見える新宿一丁目の北辰館に変わった。
 北辰館の持ち主は警官上がりで、十人ほどの女給が住んでいたが、仕事柄明け方まで帰ってこないので、夜通し起きている金子には静かで都合がよかった。ここでやがて『マレー蘭印紀行』や、『女たちへのエレジー』となる草稿に少しずつ手をいれた。
 この時期、交遊が生まれたのは画家の田川憲で、彼は木版もつくり、『鮫』をはじめ戦後刊行する二、三の詩集の挿画を担当することになる。
 金子が北辰館へ移って間もなく、新宿余丁町の実家から急用があると迎えが来た。このころ実父の和吉との長兄の正は東大久保におり、余丁町には実母のりょうと、妹の捨子(本名は捨)が結婚した河野密夫妻、弟の大鹿卓夫妻が大きな屋敷に住んでいた。
 河野密は千葉の大きな醸造業者の後とり息子で、金子の二歳下だった。一高から東京帝国大学法学部へ進み、在学中に新人会に参加した。将来は代議士をめざしていた彼は、卒業後は日本労農党に入党、次いで社会大衆党へ移った左翼の運動家だった。捨子との出会いは河野が大学を卒業した直後に、千葉の海岸に友だちと海水浴に来ていた彼女をみそめて捨子の父の和吉に娘を妻にくれと申し込んだという経緯だった。
 金子が余丁町の家へ行ってみると、捨子が化粧品製造の会社を興そうとしており、金子に製品のデザインと命名をやってほしいということだった。捨子はこれより前に、「サロンエプロン」という割烹着を大胆にカットしたものを考案して、「主婦之友」の代理部を通じて全国に販売したところ、若い主婦たちに受けて大いに儲けた。その資金をもとに、山本十重松や山本喜代松などの出資を得て、化粧品をつくることになり、主婦之友社の営業部長である中野武雄の知恵で、フランス帰りの金子に白羽の矢が立ったのである。
 新会社の主力製品は洗粉とクリームで、粉白粉、乳液など品揃えも豊富だった。金子はこれらの製品のネーミング、新聞や雑誌の広告の絵と宣伝文、容器のデザインなどを担当することになった。彼はさっそくモンココという社名を考え出した。
 そのモンココの名の由来について、作家で、一時期自身もサントリーのコピーライターだった開高健が、金子から聞いた話を披露している。
 「金子さんはずっと、ある小さな化粧品会社の宣伝文を書いていた。いまでいうコピーライターである。戦前、《モンココ》という化粧品があった。戦後は《ジュジュ》となった。(中略)いつか《モンココ》の命名の由来を金子さんに聞いたら、面白い話を教えられた。何でもパリで食うや食わずの放浪をしていたとき、金持ちの日本人がヴァカンスで遊びにいくからそのあいだ留守番をしていてくれとたのまれ、ベッドにもぐりこんでいたら、その女がやってきて、留守とも知らずに、《モン・ココ! モン・ココ》といってドアの向こうで鳩のくが鳴きをした。金子さんは空きっ腹でムシャクシャしていたから、ベッドのなかから、モン・ココじゃねいやいと叫んだ。日本へ帰ってからそのことを思い出して、化粧品の名につけた、という。(“モン・ココ”はフランス語では“かわい子ちゃん”というような意味)」(『日本詩人全集 金子光晴・草野心平』第24巻付録)
 モン・ココの由来にはもう一つ別の説がある。モン・ココは、モン(私のというフランス語)とココ椰子のココの合成語で、ココはココナッツの形から女性器の隠語であるという。そうだとすると、モンココ洗粉とは私の陰部を洗う粉ということになり、金子はそれを承知の上で社名に「モンココ本舗」を提案して、正式に採用されたのだった。
 「モンココ洗粉」は女性の洗髪用シャンプーで、細長い金属の容器に入っていて、蓋をとって粉状の洗粉を掌におとし、それで髪を洗うものだった。その容器には尖がり帽子をかぶり、ワンピースを着た、やたらに脚の長い白人の美女が描かれていた。このデザインもすべて金子の考案で、パリの地下鉄の駅などで見かけた広告の影響だった。
 モンココ本舗に事務所は河野の所に置かれ、工場も最初は敷地内にあったが、のちに資金を提供する人があらわれて、工場は高円寺に移った。金子は毎日事務所に出勤することなど考えられなかったから、顧問ということにしてもらい、一カ月五十円の給料をもらうことになった。生まれてはじめて定収入を約束されたのである。
 「それは、老母の母性的な心づかいからで、三重県にのこしてある子供を親の手元に引取らせ、親子三人の揃った生活の幸福を孫に味わせたいという祖母の気持でもあった。
 すでに、気持として、各自勝手な方向にむかっていくより仕方がなかった両親が、たがいに、旅館ぐらしのくたびれのあとで、成長していく子供を中心に、子供の父、子供の母に戻って、一つ囲いのなかにあつまったという感じだった。あまりにながい苦難のあとだったので、かえって、おたがいの恩怨は二つとも消えていたし、心境はあまりにちがいすぎているので、たいがいのことは抵抗少なく、あまり波風なく、平穏に処理することのできる習練もつんでいた。そのまま一つに流れていくものならそれでもいいし、また、おたがいにもっとよい条件ができて離れた方がいいときには、それでもいいというような、自由な黙契のもとに、両親なしであじけないおもいをさせた子供のために、すこしは犠牲になりあおうというような相談ができ、余丁町の一〇九番地というところの借家を借り受け、森は、近くの若松町のテイトアパートに一室借りて、昼間は事務所がわりにそこにいることにした。」(『詩人』)
[PR]
トラックバックURL : http://monsieurk.exblog.jp/tb/23537356
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
by monsieurk | 2016-10-08 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)