ムッシュKの日々の便り

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男と女――第六部(12)

 モンココの事務所から一軒置いた隣の、新宿区牛込余丁町一〇九番地余丁町の借家は二階建てで、持ち主は教員だった。家の入口には藤棚があり、季節になると一尺ほどの房が下がった。庭には柘榴の老木が植わっていて、秋には何千個もの実をつけ、屋根から張り 出した亜鉛の屋根庇に夜通し実を落とし、それが転がる音が耳についた。金子と三千代は戸籍上は籍を抜いていたが、海外への放浪の旅に出る前、長崎で別れて以来、四年四カ月ぶりに、親子は一つ屋根の下で暮らすことになった。ただし互いの感情や生活は拘束しないという暗黙の了解のもとであった。
 毎日の炊事と小学校二年生の乾の面倒は、同居する三千代の妹のはる子がみてくれた。乾は冬になると自分の身体より大きな剣道道具を竹刀に通して肩に負い、その重たさでふらふらしながら、すぐ裏手にある小学校に寒稽古にでかけた。 
 山之口はこの家にもよくやって来て、あるとき嫁さんが欲しいと打ち明けた。世話好きの小学校の先生がいて、その人が世話役となり、両国橋を越えたところにある喫茶店で、お見合いということになった。金子と三千代、その他三、四人がテーブルを囲んでコーヒーを飲みんだが、山之口も先生が紹介した女性も、はにかんで互いに顔を会わせない。金子が、「貘さん、この方と二人だけで、近所を一廻りしてきたらどう?」と言うと、二人は言われた通りにおとなしく外へ出て行った。三十分ほどで帰ってくると、女性が結婚を承諾したという報告だった。
 こうして二人は余丁町に近い牛込柳町の弁天アパートで新婚生活をはじめたが、箸一つ、茶碗一つから用意する必要があり、金子や三千代のところにあったもので間に合わせた。他にいるものはないかと尋ねると、山之口莫は、「これは言いにくいんだが、金子さん、無理でしょうね。――仏壇のいらないのありませんか」と言った。
 金子は自分の実家にあった紫檀の仏壇を、中の座布団を敷いたリンや仏像も一緒に入れたまま、彼に担がせて持っていかせた。そして残った元禄や享保頃から続く過去帳は小庭の枯葉や紙くずとともに燃してせいせいした。
 金子は家からモンココの事務所へ通い、月給と三千代が書く原稿料で暮らす目途がどうにか立った。「――これで、また三文文士の生活にもどらずにすむか、とおもうと、なんとなく担道に出たようなくつろぎとともに、一抹の寂寥を感じた」(『詩人』)のだった。

 三千代が詩集『東方の詩』を出版したのは、一九三四年(昭和九年)二月である。フランス綴じの詩集の奥付には、「昭和九年二月二十五日印刷 昭和九年三月一日発行 定価金壱円送料四銭 著者 森三千代 発行兼印刷人 東京市神田区猿楽町一丁目五番地 守部市美 印刷所 図書研究社印刷部 発行所 東京市神田区猿楽町一丁目五番地 図書研究社」とある。
 手元の本は、四六版、版画六葉(フランシーヌ・ルパージュ)、本文七四頁、跋〈フランシーヌ・ルパージュ)一頁、後記五頁、目次四頁。定価は一円である。 これは先のフランス語の詩集『Par les chemins du monde』に収めた十八篇のうち、「コークスになつた心臓」以下十一篇の日本語ヴァージョンと、以前に雑誌などに発表した日本語の十八篇の計二十九篇からなっている。 詩篇はタイトルが示す通り、金子光晴とともに、一九二八年十二月に長崎を出て、上海、香港をはじめとする中国、シンガポール、インドネシア、マラッカなどの東南アジアを旅して得た題材をうたった二十八篇とパリを舞台にした一篇で、フランシーヌ・ルパージュ作の挿画六点が添えられている。 冒頭の一篇「印度洋」――

まつさをい海。
でこでこしたラムネの罎のやうな海。
その海の上で、あたしのからだがねぢれる、
サキソフオンのやうに。

私の聡明、形のわからないものゝなかに、思想のゆれてゆく小径を考えてゐる。
ヘナヘナになつて、雲形にもまれてゐる感情の上に、
船欄のバランスが変形するのを、わたしは眺めていゐる。
未熟な果実のやうなまつさをな海の上の朝だ。

ごらんなさい。
宿酔うの、はれぼつたい顔、あたしの眼は充血してゐる。
波のなかに浮いて漾つているけふの玩具。
めがね、ピストル、とかげ、シルクハツト、鋏、かうもり傘、いかり、・・・・それから
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by monsieurk | 2016-10-11 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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