ムッシュKの日々の便り

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男と女――第六部(13)

 詩集には森三千代よる「後記」とともに、フランシーヌ・ルパージュの次のようなフランス語の文章が印刷されている。

 Ecrire quelque mot, ma chère michiyo, est déjà chose difficile pour quelqu’un de qualifié, pour moi c’est presque impossible.Je vous remercie de m’avoir fait confiance pour ilustrer vos poèms par quelque bois. J’espère que mes gravures vous plairont, mais je crains que ces oppositions brutales de noir et de blanc ne correspondent pas aux images que vous suggèrent vos poésies.En Europe, nous admirons beaucoup votre Art, nous en sentons toute la beauté, mais le sens profound nous en échappe souvent.Aussi, ce fut parfois difficile pour moi d’inter-préter graphiquement vos poèmes d’une sensibilité si delicate, et si différents de notre Occident, et qui, malgré votre long séjour parmi nous, gardent la forte empreinte de votre pays natal.

               FRANCINE LEPAGE.

 親愛なる三千代、言葉を書くのは、訓練を受けた人にとっても難しいのに、私にはほとんど不可能です。あなたの詩に木版で挿画を添えるのに、私を信頼してくださったことを感謝いたします。私の版画を喜んでくださるのを期待しますが、黒と白の強烈な対照が、はたしてあなたの詩が暗示するイマージに合っているかどうか心配です。ヨーロッパでは、あなた方の「芸術」は大いに賞讃され、私たちはその美に感じ入っていますが、それでもその深い意味を逃してしまうことがよくあります。同様に、あなたが私たちの許に長らく滞在していたとはいえ、故国の特徴を色濃く留め、私たち西洋のものとは大きく異なる、きわめて繊細なあなたの詩を造形することは、私には大変むずかしいことでした。

                       フランシーヌ・ルパージュ 
 
 手元の詩集の扉の裏には正富汪洋に宛てた献辞が書かれている。正富は一八八一年(明治十四年)に岡山で生まれ詩人で、詩誌「新進詩人」を創刊した人である。さらに裏表紙には中野区の「キェピタル・アパート 森三千代」という鉛筆の書き込みがある。
 三千代はこの詩集を上海で知り合った魯迅にも一部贈呈した。『魯迅日記』の一九三四年(昭和九年)三月十二日の項に、「『東方の詩』一冊受けとる、著者の森女史より寄贈されたもの」とあり、三月十七日には、「夜、山本夫人(ハツエ)に返信。森三千代女史に手紙。寄贈書の礼。」と書かれている。
 この礼の手紙が残されていて、それは以下のような文面である。
 「拝啓 一昨日 御頒与ノ「東方の詩」ヲイタダイテ御蔭様デ スワッテ色々ナ處ニ旅行スルコトガ出来マシタ。厚ク御禮ヲ申シ上ゲマス。
 蘭ノ話ト云ヘバ料理屋ニ集マッタ有様モアリゝゝト目ノ前ニ浮出シマス。併シ今ノ上海ハアノトキト大ニ変ツテドウモサビシクテタマリマセン。
                           魯 迅 上
 森三千代女史机下
           三月十七日」

 上海にいたとき、魯迅と三千代の間で話題になった蘭の話というのが、どんなものだったのか不明だが、『東方の詩』のなかの「上海」では、次のような光景を描いている。

炎のやうな杭州緞子(フーチャウどんす)に
にぎり拳のやうな女の一方の足が包まれてゐる。
むかつくやうに臭い。
――艶のうせたもの、羞かしいもの。

踊つたことのない足だ。さうではない。
人に荷はれて宙に揺れてゐるだけの足だつた。
古い商品に斬新な商標を貼る上海の商人は、
それを、「福州の木茸」とつけた。

その店先に立止つて
女政客は、拳をあげて罵つた。
長い煙管を杖についた老人は
一日、あきもしないで、それを眺めてゐた。

だが、苦力(クーリー)や、黄鞄車(ワンポツオ)や、乞食は
あえぎながら、よろめきながら、
針のやうな細い眼で睨まえて、
食はない胃の腑が、」でんぐり返つた。
――あれあ、甘(う)まさうだ!

 金子や三千代が魯迅と内山書店のサロンではじめて会ったときから凡そ五年半、その間に日中関係は大きく様変わりした。
 一九三一年(昭和六年)九月、関東軍の参謀たちは満州占領をくわだて、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破。これを中国軍の仕業と主張して総攻撃を開始した。さらに関東軍は中国国内に軍を進め、一九三二年一月には日本海軍陸戦隊は抗日運動を弾圧するために上海に出兵。国民党政府は妥協的な態度をとったが、十九路軍は市民や労働者の支援を受けて頑強に抵抗した。このとき魯迅一家は銃声が響くなか、内山書店などの身をひそめて五十日におよぶ避難生活を強いられた。
 日本政府は三月一日、清朝最後の皇帝溥儀を執政とする満州国の建設を宣言した。これに対して中華民国は国際連盟に提訴し、日本の提案も受けて、国際連盟は真相解明のためにイギリスのリットン卿を団長をする調査団を派遣した。調査団は満州の現地、日本政府、中国の蒋介石らから事情を聴取するなどの三カ月にわたる調査のあと、同年十月に報告書を公表した。報告書の結論は、満州には中国の主権のもとに自治政府をつくり、国際連盟が派遣する外国人顧問の下で、充分な行政権を持つものとするというものだった。 
 その後報告書をめぐって烈しいやり取りが行われ、一九三三年二月、日本軍に対して満州からの撤退を勧告する決議案が賛成四十二カ国、反対は日本一カ国で可決された。これを受けて翌三月、勝岡洋右外相は総会で日本の国際連盟からの脱退を表明した。こうして日本と中国との対立は決定的となった。
 魯迅は日本へ留学した経験があり、上海でも国民党の弾圧から逃れるために、内山書店の内山完造の庇護をうけるなど、日本人庶民の親切と技術の高さをよく知っていたから、日本人をひとまとめにして非難するようなことはなかった。彼は東京帝国大学中国文学を卒業して魯迅の許を訊ねた増田渉に、一九三一年から毎日『中国小説史略』や自らの小説集の講読を続けたし、三千代との交流などもそのあらわれだった。しかし、魯迅が日本の大陸政策を認めることは決してなかった。
一九三四年三月三日、銀座の「明治製菓」の二階で、『東方の詩』の出版記念会が開かれ、長谷川時雨の「女人芸術」を引き継いだ雑誌「輝ク」の同人の女流文学者が大勢出席した。これを契機に、三千代は詩ではなく小説一本でやる決心をした。
 その三日後の九日には、金子の実母りようが亡くなった。六月になると、彼女は望月百合子から日本舞踊を習いはじめ、八月には大田洋子たちと合作で書いた映画のシナリオ「人生芝居」の撮影が開始され、その現場を訪れた。さおして九月十五日には、横浜開港記念館で「芸術の謝肉祭」と題した講演を行い、十一月十日には、本郷の帝大基督教青年会館本道の詩人祭で講演するなど、作家として認められるようになった。
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by monsieurk | 2016-10-14 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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