ムッシュKの日々の便り

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男と女――第六部(19)

 青野季吉は「毎日新聞」紙上で、「事変このかたのジャーナリズムの支那論や現地通信はほとんど現象的、擦過的だが、時には荒唐無稽なものだあるが、金子光晴の『泡』は戦争の支那というものの実体をじかに感じさせる」と激賞した。
 そして同じく衝撃をうけた壺井繁治が、岡本潤とともに余丁町を訪ねて来た。そして彼は、「金子光晴の現実社会への批判精神はニヒリスチックな否定の形をとる時、最も強さを発揮する特徴を持っており、『泡』はそういう作品の一つである」。「『洗面器』(のちに詩集『女たちへのエレジー』に発表)を読んでも解る通り、非情にニヒリスティックな側面を示しているが、『泡』ではもっと、絶望となっている。そしてそんな絶望がそのまま現実への痛烈な批判となっているところが、わたしには強いショックを与えた」(『激流の魚』)と書いた。金子の詩の本質をいい当てた批評であった。
 金子は自らの東南アジアやヨーロッパ放浪を、詩をつくるためのものではなかったと言うが、この旅から帰ったとき、詩人は辛辣な歴史や、歴史のなかで翻弄される人たちへの親近性をそなえた強靭な言葉で詩嚢を豊かにしていた。
  このころモンココから得る顧問料と、三千代の原稿料で生活は安定したので、彼らはモンココから一軒置いた隣の、余丁町一二四番地の広い借家に移った。ここは電車通り面した場所で、庭には樹齢五百年といわれる黄楊の樹があった。
 亡くなった義父荘太郎の姪である山家ひで子に会ったのはこの頃でことである。ひで子は山家流の小唄の師匠で、金子の義母の須美が彼女のところで働いているが、金子と暮らしがっているということだった。須美は荘太郎が病床にあったときから若い愛人の西村に溺れ、金子たちが海外にいる間に行方が知れなくなっていた。金子は大鹿一家への遠慮から須美を引き取るのを躊躇したが、三千代は賛成した。こうして須美が新たな借家に同居することになった。
 須美については後日談がある。余丁町の家には、三千代が命名した雑誌「文学草紙」の
同人が出入りしていたが、その一人冨永次郎(兄の太郎は夭折した)の父親が妻を亡くして独りでおり、須美と結婚させることになった。二人は同居したが、家事の出来ないて彼女はたちまち離縁されて、余丁町の家に戻ってきた。
 金子の自伝である『詩人』には、次のような記述がある。
 「当時の僕には、詩の傑作はあまり問題ではなかった。僕は、当時の詩の周辺に対する諸疑念をたしかめ、じぶんの認識をしっかり心にきざみつけるため、納得のゆくためだけに、詩を書こうと心組みした。そういう意味では、僕は、過去の僕の詩の書きかたと全くちがった方法で詩を書きだした。」
 こうして出来上がったのが「泡」であり、「鮫」であった。
あるとき、国木田虎雄がやってた。
 「シンガポールを出るとき、乱雑に書いておいたながい『鮫』という詩があった。国木田はそれをよんでいたが、
 「ちょっと、これを貸してくれ」
 と言って持っていった。彼は、その詩を、当時、大木戸〔四谷の〕の方でアパートぐらしをしていた中野重治にみせた。中野が、その詩に興味をもって、雑誌にのせてもいいかと、ことづけてよこした。
 「あんなものを出してくれる雑誌があるのかねえ。出してくれて、そのうえすこしでも稿料がはいったら猶更結構だ。だが、はたして、面白がるかどうか・・・」と、僕は返事をした。その詩が、改造社から出て手ていた『文芸』という雑誌にのった。」(『詩人』)
 これは詩篇「鮫」が「文芸」九月号に掲載された経緯である。そしてこの作品は、金子自身が述べている通り、これまでとはまったく違ったものであった。
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by monsieurk | 2016-11-02 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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