ムッシュKの日々の便り

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男と女――第六部(27)

 金子と三千代が帰国して以降、中国大陸での戦争拡大につれて、日本社会の右傾化が進んだ。
 一九三五年(昭和十年)二月には、菊池武夫が貴族院で美濃部達吉の天皇機関説を批判し、美濃部はこれに反論した。しかし首相の岡田啓介が議会で天皇機関説に反対を表明し、美濃部達吉は九月に貴族院議員を辞職した。そして政府の思想取り締まりは一段と強化された。この年の三月には、日本共産党幹部が検挙され、共産党中央委員会は壊滅。機関誌「赤旗」は終刊に追い込まれた。
 武田麟太郎はかねて雑誌「文学界」に名前を連ねており、同人の会合が十月に行われ、その席で小林秀雄が再編を主張した。
 それは先輩作家たちに遠慮してもらって、横光利一や川端康成以下の若い者たちで雑誌をやろうというものであった。そして小林が同人の間をまわって話し合いの結果、里見弴、宇野浩二、豊島与志雄、広津和郎が身を引き、代わりに村山知義、森山啓、島木健作、舟橋聖一、阿部知二、河上徹太郎の六人が加わって、同人は全部で十三人となった。編集は小林秀雄と十一月に出所した林房雄がやることになり、武田はなんとなくはみ出した形だった。
 そうしたとき林房雄がプロレタリア作家を再結集しようといい出し、武田も賛成して発起人になった。創立総会は官憲の目が厳しい折から、入会勧誘状を出し、その返事をもって総会にかえた。締切の十二月十九日には、九十五人から参加の返事が集まった。
 年が明けた一九三六年(昭和十一年)二月二十六日、陸軍皇道派のの青年将校が千四百名あまりの兵を率いて挙兵し、内大臣斎藤実、蔵相高橋是清、教育総監渡辺錠太郎たちが殺害し、政治の中枢である永田町一帯を占拠して、国家改造を要求した。いわゆる二・二六事件である。前夜から大雪が降ったこの日、金子は自宅にいた。
 「前夜来の雪の寒い朝、余丁町の表口から国木田が、蒼ざめた顔をしてぶるぶるふるえながらやってきて、
 「たいへんだよ光(み)っちゃん」
といって、軍人たちがクーデターをはじめて、内閣の閣僚は皆殺されたと報道した。二・二六事件だった。僕も来るものが来た、という感じがした。たしか、その頃は、余丁町一〇九番地を引きはらって、表通りの電車道に添うた、一二四番地の貸家にうつっていたと記憶している。その家は、やはり五坪たらずの庭があり、柘榴のかわりに、すばらしく立派な柘植の木が一本植っていた。国木田は、左翼の出版の秘密図書を一抱えもってきた。僕は、鍬をふるって、その柘榴の木の根もとの雪をおこし、できるだけふかく地面を掘って、その本を悉皆埋めた。国木田の身のうえに迫ってくる危険を、我身のうえにも惻々と感じた。」(『詩人』)
 時勢は緊迫する一方だったが、武田麟太郎たちが主宰する雑誌「人民文庫」は、三月に創刊号を出した。その編集後記にはこうあった。
 「いつからか、こんな雑誌を出してみようと云ふ気運が私たち仲間に湧いた。云はば、今のところ徒党的な雑誌であるが、それでいいと思つてゐる、外から原稿は貰はず、仲間だけのですました、後々までこの調子でやつて行くかどうかは未だ解らない、唯、秋田、江口、青野氏には社会主義文学の三長老と云ふ意味で、若輩の私たちを助けて、勝手気気儘なところを、毎月何頁か書いて頂くことにした。」
 雑誌の費用はすべて武田が持った。参加者は「日暦」を主宰していた高見順や、新田潤、渋川驍、円地文子など旧日本プロレタリア作家同盟の人たちが多く、武田を師と慕う大谷藤子や谷田津世子も同人となった。皆が次第に発表の場を失いつつあった。三千代も武田の行動力に強く魅かれた。
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by monsieurk | 2016-11-27 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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