ムッシュKの日々の便り

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男と女――第六部(30)

 翌二十九日、前年の冨士登山で味をしめた金子たち三人は、この夏は那須へ避暑にでかけようとして家を出たとき、号外の新聞が配達されて、通州事件が起きたことを知った。北平(北京)の東の郊外にあたる通州で中国の防共自治政府保安隊によって、日本人居留民二百人以上が殺害されたというニュースであった。
 金子は旅行の中止も考えたが、自分たちにはさしずめ関係がないと思いなおして、そのまま旅行に出かけ、十日間ほど那須から塩原の温泉地をめぐった。
 こうした時勢のなかで『鮫』を出版するのは危険だと、一時見合わせる意見も出た。しかし「人民文庫」を編集している本庄陸男がやって来て、金子を説得した。
 「戦時にはいっては、僕の『鮫』も、一先ず形勢をみて出版すべきだという説も出て、僕も引込めるつもりでいたところ、『人民文庫』の編集をしていた本庄陸男が余丁町の家にやってきて、その考えに異議を申し立てた。「こんな形勢になったからこそ、この詩集の意義がると僕は思います。是非出してください」という、真正面な言葉によって、僕は意をひるがえした。本庄君のようなヒタ向きな人間のことばを、日本ではすでに久しく耳にしなかったからだ。二人は余丁町から新宿に歩いて、角筈の角のオリムピックという店で夕食をとりながら、出版の手筈をあれこれと相談した。本庄君はもう、よほど胸の病勢がすすんでいたらしい。」(『詩人』) 
 難産の末、こうして『鮫』が出版された。B六版、九十九頁、定価一円。厚紙の箱入りで、表の題字は郁達夫の揮毫の文字が大きく印刷され、扉の文字と絵は吉田一穂、挿画一点と各ページの上部のカットは田川憲〔憲一となっている〕の木版画が飾った。収録された詩篇は、「おっとせい」、「泡」、「どぶ」、「燈台」、「紋」、「鮫」の六篇で、奥附には、「昭和十二年七月八日 印刷 / 昭和十二年八月五日 發行、金子光晴著 / 鮫、定價 壹圓 / 送料 十銭、著者 金子光晴 / 發行者 武田麟太郎 / 印刷者 銀山一郎 / 印刷所 櫻文印刷加工株式会社 / 発行所 東京市神田区淡路町二ノ七木口ビル 人民社」とある。
 そして詩集の冒頭には「自序」があり、こう書かれている。
 「武田麟太郎さんに序文をお願ひしたが、別に書くこともなささうだといふこと。僕が自分で筆をもつたが矢張、必ず言はねばならぬこともありません。一言、鮫は南洋旅行中の詩、他は歸朝後一二年の作品です。なぜもつと旅行中に作品がないかと人にきかれますが僕は、文學のために旅行したわけではなく、鹽原多助が倹約したやうにがつがつと書く人間になるのは御めんです。よほど腹の立つことか、輕蔑してやりたいことか、茶化してやりたいことがあつたときの他は今後も詩はつくらないつもりです。
 僕の詩を面白がつて發表をすゝめてくれた人は中野重治さんで、序文をたのむのはその方が順序と思ひましたが、このあついのにたのむのをやめました。」
 人民社が最初に出した単行本であった。二百部を発行したが、売れたのは半分ほどで、残りは金子と武田の家の押入れに長く置かれていた。幸い発禁処分は免れたが、金子自身はその理由を、
 「『鮫』は、禁制の書だったが、厚く偽装をこらしているので、ちょっときては、検閲官にもわからなかった。鍵一つ与えれば、どの曳出しもすらすらあいて、内容がみんなわかってしまうのだが、幸い、そんな面倒な鍵さがしをするような閑人が当局にはいなかったとみえる。なにしろ、国家は非常時だったのだ。わかったら、目もあてられない。『泡』は、日本軍の暴状を暴露、『天使』〔収録されていない〕は、徴兵に対する否定と、厭戦論であり、『紋』は、日本人の封建的性格の解剖であって、政府側からみれば、こんなものを書く僕は抹殺に価する人間であるわけだ。」(『詩人』、なお「天使」は戦後の詩集『落下傘』に収録された。)
 金子がいう通り、『鮫』は天皇制とはじめ社会の病巣をあばく批判が、おっとせいや鮫などに仮託されて象徴的に描く技法が用いられていたから、検閲官の目を逃れることができた。その他、世間に出まわった部数が実質百部程度だったことや、「人民文庫」は当初から監視の対象で、幾度も発禁処分を受けていたが、金子自身は執筆メンバーではなく、長らく日本をあとにして無名に近かったことも幸いしたと思われる。
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by monsieurk | 2016-12-06 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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