フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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男と女――第六部(33)

 三千代は武田麟太郎の許を訪ねることを繰り返していた。三千代が武田麟太郎とのことを書いたのは、先に引用した回想「あの時 この時―武田麟太郎先生の思い出―」(「風説」、昭和二四年三月号)の他に、「銀座を行く武麟」(「小説新潮」、昭和二八年五月)、「最後に会った日のこと」(六興社版『武田麟太郎全集』月報、昭和三七年七月)があり、雑誌「アリーナ」(中部国際人間学研究所刊)二〇〇五年号には、「銀座を行く武麟」の前身と考えられる「女弟子」が掲載された。この未完の原稿は、三千代の九冊目の日記帖に書かれていたもので、金子光晴の蒐集家の桑山史郎が東京神田の古書店で見つけ、同誌に発表されたものである。
 「女弟子」の内容は、「銀座を行く武麟」と重なる部分が多いが、一層生々しい記述がされている。小説の冒頭部分――
 「謙吉と珊子のやうな夫婦のありかたは、外見には一寸理解しにくいものであった。彼等は五年間あまりの別居生活ののち、岩や波にせかされて別れ別れになつた漂流物がふたゝびもとの場所に出会ったやうに一つ家に住むことになつたのだ。それといふのも、波や岩にもまれてゐるあひだ遠くからおたがひの姿をながめあつてゐた彼等は、どちらも相手がそのあひだ仕合せさうには見えなかつたので、両方でそれぞれ、やはり相手には自分が必要なのだと思ひこむようになつたからであつた。」
 謙吉は金子で、珊子が三千代であるのいうまでもない。二人は一つ家に住み、化粧品会社の広告の文言を珊子が考え、謙吉が絵を描いて収入を得ている状況も二人の実生活そのままである。
 珊子は白皙長身の中国人青年と恋愛をしていて、彼を家に泊めた翌朝、謙吉を鉢合わせしたりする。作中ではこの青年は柳剣鳴という名前で呼ばれている。
 作中の謙吉は、「信じ易く、人には親切好きで、陽気でにぎやかなことのすきな彼の性格の表面の底は、真空のやうな底知れない人生の空しさに通じてゐた。いくらのぞいても我執や野望などといふもののかげもさゝない恬淡さは、生活のうへでは無気力なあらはれとなり、世俗のうるさいことから一切のがれようとする放任主義は無責任の結果に終るのだつた」と語られる。
 珊子が柏木雄之助(武田麟太郎)の家を訪ねるようになったのは、柳剣鳴のことを描いた小説に、雄之助が月評で二、三行触れたのがきっかけだった。柏木の家は麹町の広い表通りから細い道に入ったところにある二階家で、「下駄箱の上ででも原稿が書けるといひ、ごみごみした市井のあひだからいきいきとした世相を拾つてくる彼のやうなタイプの男の住む場所としては、この環境はおさまりすぎてゐると、いつも珊子は思ふのだった」、「彼は原稿を書きながら机のまはりに客をひきつけて、談笑の仲間入りをしながら筆を動かした。そのやうな仕事振りが、彼の妻の芳子が質草といつしよに家の前から自動車にのつて、地方から彼を頼つて出てきた青年のために金をとゝのへてかへつてくる。さうした暮らしかたといつしよに人々の語り草となつた。」
 実際の武田も、借金をして創刊した「人民文庫」が毎号のように発禁処分をうけて廃刊に追い込まれ、その後始末を一人で背負い込んでいた。そのため高利貸しや高利貸しを世話する男たちが書斎にやってくるのだが、武田はそんな彼らを前に坐らせて新聞小説の続きを書いていた。三千代が魅了されたのは、そんな生き方と作品だった。
 「珊子は、その恋愛の彼方に、一筋の光明をものぞむことはできなかつた。八方に分散してゐる彼の愛情をどうやつて、彼女一人の手にとりおさめることが出来よう。彼は、たくさんの男や女たちのものであつた。たくさんの雑誌社や書肆のものだつた。彼は、数万、数十万の読者たちに属する人間だった。
 たゞ一人の女から一人の男を奪ふことだつて、容易なことではないのに、彼をとりまく森羅万象から彼をひきはなして、全く自分のものにすることができるだらうか。しかし、それなればこそ、珊子は、その一瞬に燃えてみたい気もするのだった。」
 ある日、二人の雑誌記者と取り巻きの若い男、柏木、珊子の五人で銀座へ繰り出すことになり、タクシーに乗ったことがあった。珊子は柏木の前の補助席に坐り、柏木の膝がうしろ向きの彼女の身体の一部を押す格好になった。「その部分で彼のあつたかい血の流れを感じるのが、珊子にはめづらしかつた。肉躰は、精神のやうには嘘がつけないものだ。自動車の動揺で彼の膝が強く押す時があつたが、ひつこまうとはしなかつた。彼女がその膝がわきへそらせらるのをおそれてゐるやうに、彼女がからだの位置をづらすのを彼もおそれてゐる。そのお互いの持つてゐる危惧もわかりあつているやうに思われた。」
 この年の十一月には、日独伊防共協定が締結され、中国では戦線が拡大する一方だった。十二月十三日には日本軍は南京を攻略し、南京大虐殺を引き起こしたが報道は一切されなかった。
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by monsieurk | 2016-12-15 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)