フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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男と女――第六部(34)

 世間は戦勝のニュースに湧きたっていた。だが金子の周辺では、それとは違うことが起きていた。前年の夏に三千代を頼って上京してきた義弟の義文に召集令状がきた。また会社で可愛がっていた社員の青年が北支で戦死した。
 金子は、「戦争中の新聞雑誌の報道や論説は、いつでも眉唾ものときまっているが、他の学説が封鎖されていると、公正な判断をもっているつもりの所謂有識者階級も、つい、信ずべからざるものを信じこむような過誤を犯すことになる。人間は、それほっど強いものではない。実際の戦場の空気にふれ、この眼で見、この耳で直接きいてこなければ、新聞雑誌の割引のしかたも、よみかた〔傍点〕もわからなくなってくる」(『詩人』)との思いから、三千代を連れて北支へ行ってみることにした。
 詩人と小説家という身分では渡航許可は下りそうもないので、モンココの商業視察という名目で申請した。このときの金子の心中には、土方のときと同じように、この旅行で三千代と武田の仲に冷却期間をおこうという思いがあったかもしれない。
 三千代は三千代で、別れた紐先銘(柳剣鳴)と会う期待から中国行に賛成した。しかしそんな偶然は万に一つもないことは分かっていた。彼女の本心は、「戦争という大舞台を背景にして、ロマンスの終止符がどんなふうに打たれるかに興味があるのだと思つた。新しくはじまるロマンスにそれが出発点になるかもしれない。それならばそれもおもしろいではないかとも考えた。してみると、やはり彼女は、剣鳴とめぐりあふことを目算においてゐたのだらうか。いちばんほんとうのことは、剣鳴との事件を心の中でむしかへして、なんとなく腰の持ち上げにくい、臆却な北支行の誘惑剤にしてゐるのだつた。」
 彼女は北支行の計画を武田に伝えた。武田は彼女の旅の目的が中国人青年将校の行方を探すことなのをすぐに察したから、機嫌が悪かった。それでも彼らは逢瀬を重ねた。この点でも、三千代の行動は土方のときと同じだった。出発の前には二人だけの送別会と称して二日間飲み歩き、うらぶれた仕舞屋(しもたや)に泊まった。
 「三日目の夕方、河岸を変へ山の手の酒場を二三軒のみ歩いたあと、夜更けて彼女は、彼におくられてわが家の方へ帰っていつた。二日間の灼けつくやうな思ひ出が、彼女の膚にまだうづいてゐた。だが、それだけのことであった。
 暗い道を、二人は一言も言はずに歩きつゞけた。彼女の心には、あせりがあつた。二人が本当に結びついたと思つたあの瞬間はもう二度とかへつて来なかつたのだ。「私達、恋愛したら死ぬかと思つていたの」と彼女は言つた。「僕もだ」と彼は言つた。しかし、さう言つたすぐあと彼女は、死ぬことなど絶対にない気持ちになつてゐることに、彼女自身気附いてゐた。憑きものがおちたような男女の交渉がのこつてゐるだけのことに、半ばがつかりしてゐたではないか。」
 「肉体の交渉は、あの極度に高潮した精神と精神との融合を裏付け、たしかめるにすぎない。だから肉体の交渉には、馴れあいがある。肉体の交渉に酔ひか〔ママ〕またつゞくのは、最初の瞬間の宿酔にすぎないのではないだらうか。これは、あとになつて珊子が思つたことだつた。」
 こうして二人は家の前で別れる。
 「家の中で、二階から人の下りてくる気配がきこえた。
 女中の寝てゐる茶の間の前廊下を足音をしのばせて二階の部屋に上つて謙吉と顔を見合わせると、彼女は自分の上機嫌をかくすことができなかつた。
 「二日間打ち通しの送別会をやつたのよ。昨日はとうとう友達の家で寝込んぢやつたの。夕方起きるとまたお酒よ。ゆうべは夜あかしで、今日は疲れて一眠りしなくちゃ、とても帰れなかつたのよ。」
 謙吉は、その嘘のまづさにおどろゐた。しかし、帰つて来たのだ。北支行きはこれで中止にもなるまいと、彼はほつとしながら、彼女がねまきに着換へるのを手伝つてやつた。(中略)鏡の奥から、謙吉のものほしげな目がのぞいてゐた。謙吉の欲してゐることが、珊子には手にとるやうにわかるのだつた。酔つてふらふらするからだで着物を脱がしてもらひながら、そのあとで謙吉が待ちかまへてゐることを、彼女が知らないはずはなかつた。彼女はふと、雄之助とのある場合の思出に刺激されて、謙吉の誘ひにのつてゆきさうな自分を感じた。」
 『女弟子』では、謙吉が自分の部屋へ引き揚げたあとには、極寒の北支へ行くために揃えた、毛糸のジャケット類、兎の毛皮のついたチョッキなどの他に、気まぐれで注文したスキー用の女性用のズボンが、箪笥や行李から出されて積まれており、あとは旅行鞄に詰めるばかりになっていたと書かれている。こそらくこれは実際にあった光景だったと思われる。
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by monsieurk | 2016-12-18 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)