ムッシュKの日々の便り

monsieurk.exblog.jp ブログトップ

男と女――第六部(35)

 北支行き

 一九三年十二月十二日前後、金子と三千代は三度目の中国旅行の途についた。これより前、三千代の「小紳士」が雑誌「文芸」の十一月特集号に載った。息子乾をモデルにしたもので、多くの読者をもつ文芸誌にはじめて作品だった。ようやく文壇の認められた喜びは大きかった。
 金子の『詩人』には、「僕は、この年の十二月二十幾日〔金子の記憶違い〕の押しつまった頃になって、森をつれて北支に出発した。渡航はなかなかむずかしかった。文士詩人ということは伏せ、むろん、報道員などの肩書はなく、洗粉会社の商業視察の許可をえて、神戸から、上海にわたった。」とある。
 渡航許可は籍を置いている「モンココ」本舗の市場視察という名目で、上海、天津、北京、山海関、張家口とまわる予定だった。ただ旅費等は会社からは一銭もでず、すべては三千代が原稿で稼いだ金だった。
 二人が神戸から乗船したのは軍需品の輸送船で、すし詰めの三等船室にかろうじて場所を見つけるという状態だった。この船中で南京陥落のニュースを聞いた。
天津は一八六〇年の北京条約によって開港され、二〇世紀初頭にはイギリス、フランス、日本など八カ国の租界が置かれ、一九三七年当時は四カ国の租界が残っていた。日本人租界の人口は一万六千人と膨れあがっていた。
 柳条湖での衝突に端を発する満州事変以後、日本軍は北平(北京)や天津に迫り、中国軍は万里の長城の南に撤退して、戦闘は一段落した状況だった。北支は対中国、対ソ連の前線基地として支配下にあった。
 天津航路では、河幅が三百メートルにもなる白河の河口に二つの投錨地があった。太沽(Taku)は河口の南岸に位置し、塘沽(Tangku)はさらに八キロさかのぼった北岸にあった。塘沽は京山鉄道沿いにあり、通常はこちらに寄港するのだが、この年の中国北部は三十年振りという大洪水に襲われて河底が浅くなり、船はそれ以上白河をさかのぼることができなかった。そのため金子たちの船は沖合十五キロの太沽バーに繋留し、船客は小型汽船や小舟に乗りかえて塘沽の瑪頭まで行った。
 北中国の十二月末の寒さは、「たたき割ったガラス罎のぎざひざをさわるよう」だった。そのなかを駅まで歩いていく日本人の列を、血走った目をした兵士が銃剣を構えてにらんでいた。街の周辺の田や畑を氾濫した水が浸し、それがひく前に零下何十度の寒さで凍ってしまったため、いたるところが汚いシャーベット状を呈していた。
 天津では同人誌「楽園」の同人だった永瀬三吾が、「京津日日新聞」の社長兼主筆をしていた。到着するとすぐに、彼が日本人租界にある自宅の温かい部屋を提供してくれた。街では兵隊を満載したトラックが何台も走りまわり、銃剣をかまえた兵士が立って警戒にあたっていた。
 天津には戦争の爪痕がいたるところに残っていた。この年七月二十七日、日本軍は天津の駅を占拠し、翌二十八日には電話局、市政庁、警察、大学などを空襲した。なかでも抗日運動の拠点と見られた南開大学への攻撃は猛烈をきわめた。中国軍は二千人の戦死者を出し、難民は十万人におよんだ。
 金子は出発前に中央公論社の畑中繁雄から紀行文を頼まれていたので、天津滞在中に「没法子(メイファーズ)――天津にて」と題した文章を送り、「中央公論」一九三八年二月号に掲載された。戦中のルポルタージュとしても貴重なもので、金子は船中の様子からはじめている。
 「三等船客というものは、デッキにいるとき風体がへんなのですぐわかる。感心にワイシャツを着ていてもネクタイなしで、素足に冷飯草履をはいていたり、どてら姿によごれたタオルで百姓がぶりをしていたり、婦人連中にしたところが、髪をばさばさにし、おしろい気もうせ、船酔いと疲れで揉み苦茶になった顔をちょっと出したかとおもうと、痛いような寒風とくらくらする外光に辟易して、たちまち首をすっこめ、ひょろひょろしながら船底の嘔吐用の小さな金盥のおいてあるところへ降りてゆく。船に万一のことがあった場合の遭難注意啓示には、救助担当者、一等船客は事務長、二等船客は事務員、三等船客は貨物主任と書いて貼り出してあるところをみても、三等船客は人間よりも貨物の部類に属するもので、ボーイたちの扱ひも貨物同様に手荒だし、したがって、どんなに紳士らしい風采をしてみてもはじまらないので誰もなげやりになるのである。特に、今年は各等の船切符はもう売切れ途いうほど、猫も杓子もが北支へ志している際とて、満員の上を通り越し、茣蓙一枚の上に二人ないし三人という割あてで、あおむいて寝る等は贅沢で気がひけるくらいであった。すこしでも場席をつごうするために他人の頭のほうへ足をすみのばし、たがいちがいになって寝ているものもあった。人熱蒸(ひといきれ)、ペンキや船底ですえたもののにおい、半病人になって寝ている母親にとりついて、起(おつ)き、起きとせがんでは泣く子供たち。があがあいうラジオ。つきもどす声。まずい食事。だが、平時のように苦情を言いくらすものはなかった。」(「没法子(メイファーズ)――天津にて」)
 乗船していたのは、軍属、女給を監督する料理屋の女将、女工の監督、植民地ゴロ、大阪弁の商人など千差万別だったが、ほとんどが世間が動揺している間に利権をものにしてあぶく銭を掴もうという魂胆のものであった。
[PR]
by monsieurk | 2016-12-21 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://monsieurk.exblog.jp/tb/23728683
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
line

フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31